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【福島・南相馬】震災から13年 いまだから話せるあの日のこと

父が語った“苦悩” それを知った息子たちは
  • 2024年04月05日

東日本大震災の津波で妻を亡くした三浦良幸さんは13年前の自分の選択が正しかったのか、ずっと思い悩んできました。今回の取材で話してくださった言葉。そして、それを受け止めた息子たちが父に伝えた思いとは。(カメラマン 佐野哲也)

 

「悠(はるか)、光(ひかり)、朝だよー」
キッチンから2階の部屋に声をかける南相馬市の三浦良幸さん(66)。毎朝5時から、2人の息子たちのために朝食を作っています。
長男の悠さん(24)、次男の光さん(21)と3人で囲む食卓。妻・浩美さん(当時36)のいない暮らしは13年になりました。

南相馬市の自宅・親子3人だけの食卓

浩美さんは2011年3月11日、沿岸部にある実家に向かう途中で津波にのまれ、ひと月後に遺体で見つかりました。

妻・浩美さん(当時36)

親子3人で原発事故による避難生活を余儀なくされるなか、良幸さんは震災から半年後に脳梗塞で倒れます。いまも左半身にまひが残る体で、息子たちを社会人にまで育て上げました。

三浦良幸さん(66)

ご家族と私たちとの出会い

私たちが三浦さん家族にはじめて出会ったのは、いまから9年ほど前、被災地の子どもたちの作文授業を取材させていただこうと、当時小学6年生だった次男・光さんの教室に伺ったときでした。そのとき、クラス全員に手紙を書き、家庭での取材もお願いしたのですが、真っ先に了承してくださったのが、クラスで唯一、震災で肉親を失っていた三浦さん家族でした。ご遺族の取材は断られて当然だと思っていたときに、良幸さんが一番にお返事をくださったことに驚いたことを今でもはっきりと覚えています。

良幸さんは「息子2人との3人暮らしの中で、家の雰囲気が重苦しい。カメラに家に入ってもらってなんとか空気を変えたい」と話していました。

当時、自宅の放射線量が高かったため、狭い仮設住宅で暮らしていた三浦さん親子。良幸さんには気がかりだったことがありました。それは子どもたちが、母親の浩美さんの話を一切しなかったことです。
そのことを重い空気のように感じていた良幸さんは、私たち外側の人間に家に入ってもらうことで、家庭の雰囲気を変えることができるのではと期待していたのでした。当時自宅にお邪魔したとき、その雰囲気は確かに感じましたが、それは一時的なもので、時間とともに消えていくのではと思っていました。

2015年 仮設住宅で 母の話を息子とできない

カメラの前で語った、あの日からの“苦悩”

その後、歳月を重ね、私たちは三浦さんの家の雰囲気はもう良くなっているのではないかと勝手に想像しつつ、またそのことを深く心に留めず、ふたたび取材をお願いしました。今回は父・良幸さんの13年のご苦労を伺いたいと思ったからです。

お話を聞くなかで「これまで最もつらかったことはどんなことでしょうか」と質問を投げかけました。まひの残る体で慣れない家事をこなしてきた肉体的な大変さのお話をしてくださるのではないか…。しかし、13年前、妻の浩美さんを見送ったときのことを聞いて、私たちの浅はかな考えは覆されました。

(良幸さん)
「最後の最後で、浩美の顔を、悠と光に見せてあげられなかったことをいま悔やんでいる。『見せない方がいい。トラウマになるから』とも言われたが、あの時はどうすればよかったのか。悔いがないようにと、最後の火葬のスイッチを押すときは3人で一緒に押した。しかしあの時、浩美の顔を見せてあげればよかったかもといまでも悔やんでいる」

あの時、どうすればよかったのか…。浩美さんの最後の顔を見せなかった決断が、息子たちが母親の話に触れてはいけないような重苦しい雰囲気を家族の間に生んできたのではないか。良幸さんはそのことを思い悩み続けていたのでした。
「家の空気を変えたいから」とカメラを受け入れてくれた9年前の状況は変わっていなかったのです。
 

父の思いを受け止めた息子たちは

長い間、苦悩をひとりで抱えてきた父、良幸さん。もし、それを息子さんたちが受け止めてくれたら、良幸さんの心はいくぶんか癒やされるのではないだろうか。私たちは、2人の息子さんに良幸さんの苦しみを伝えられないかと考えました。しかし、息子さんたちが「どうして見せてくれなかったのか」と父の決断を否定するようなことがあれば、悩みを抱えてきた心の傷を深めることになるかも知れない。私たちは迷いながら、良幸さんのお許しをいただいた上で、息子さんたちに話してみました。
 

(佐野カメラマン)
「亡くなったお母さんの顔を2人に見せなかったことを、お父さんはいまでも悩んでいるとおっしゃっています」

 

(長男・悠さん)
「見たかった反面、見るのが怖かったかなと思います。どんな顔だったか分からないですけど、見せたくないって言うのもわかります。悩むのはわかります」

(次男・光さん)
「当時は自分では分からないくらい思い悩んだだろうし、それで決めたことなら、それでいいんじゃないかなと思います」

 

そして、父の思いを受け止めた2人が言葉にしたのは…。

(悠さん)
「慣れない料理やったり、中学校の時送り迎えしてくれたりしたので、感謝です」

(光さん)
「父がいて、ここまで育ってこられました。感謝の思いがあります」

 

私たちは「家族の空気を変えたい」という良幸さんの切実な思いに応えることができたのでしょうか。深い苦しみは簡単には消えないと思います。しかし、取材のあと良幸さんから「ありがとう。また来て下さい」という言葉をいただきました。放送後に遠くの親戚や近所の方に言葉をかけられたと、てれくさそうに話してくれた表情は以前よりもおだやかに見えました。

自分たちの取材が心の傷を深めてしまうのではないかと自問自答する日々でしたが、結局のところ、テレビカメラで取材することとは、人のやさしさを伝える営みであるべきではないか。今回、良幸さんからそう教わったような気がします。
 

良幸さん、悠さん、光さん。取材させていただき、本当にありがとうございました。

  • 佐野 哲也

    福島放送局カメラマン

    佐野 哲也

    1993年入局
    地域職員として震災・原発事故の被災地の取材を続ける。

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