2021年06月08日 (火)思い出ISHINウラ話


こんにちは。リポーターの藤本珠美です。

さて、先日5月20日(木)の情報維新!やまぐちの中で放送した“思い出ISHIN”では、

秋吉台とその地下に広がる鍾乳洞の世界をご紹介しました。

秋吉台はあまりにも奥が深すぎて、残念ながら放送では紹介しきれなかった内容が

たくさんあるので、きょうはその一部を紹介したいと思います!

 

放送では、秋吉台が明治時代から日本陸軍の軍事演習場として使われており、

戦後はアメリカ軍の爆撃演習場として使われそうになったものの、

国をあげての反対運動の結果、学術的価値が認められて、爆撃演習場として使われるのを免れたという歴史や、

そうした歴史を経て秋吉台の地下に広がる洞くつでも調査が進み、今では450を超える

洞くつが見つかっていること。さらには、新種の生物や江戸時代に書かれた墨書きなど、

今でも毎年のように新たな発見が続いているといった内容をご紹介しました。

2021060801.jpg

2021060802.jpg

2021060803.jpg 

放送でもご紹介した江戸時代の墨書き。実は、観光洞としても有名な“景清洞”で

見つかったもの!景清洞ではこうした江戸時代に書かれたと推測される墨書きが

100個以上も見つかっていて、観光コース用のルートの壁面に書かれているものも

いくつもあるんです!

(実際に今回ご紹介したものも、観光ルートの壁面に書かれていました!)

2021060804.jpg

文字の多くは“雨ごい”のために書かれたものなのだそうです。

景清洞のあるこの地域では、カルスト地形で水が地下に吸い込まれてしまうため、

雨が降らないとすぐに水不足になっていたそうです。そこで、当時の人々は川が流れ出て

いた景清洞に、水の神様が住んでいると考えていたのではないかということです。

洞くつそのものも価値が高いですが、こうして江戸時代の人がどんな風に利用していたか、

洞くつが人々にとってどんなものだったのかが分かるというのは、とても貴重だなと感じました。

※貴重なものなので、もし見つけても絶対に触れないでくださいね。

 

また、放送では、およそ60年前に秋吉台科学博物館の研究員として洞くつの調査を

していたお二人に、当時の洞くつの調査の様子を教えていただきました。

2021060805.jpg

2021060806.jpg

お二人によると、当時の観光ルートは、この“黄金柱”まで。

今では観光名所となっているこの“マリア観音”も、当時はまだ“未開の地”だったそうです。

2021060807.jpg

そして、当時こうした洞くつの調査に使っていた道具も今とは全く違ったようなんです。

その一つが縦穴と呼ばれる洞くつを上り下りするための“はしご”。

2021060808.jpg

2021060809.jpg

私も持たせていただいたのですが、持ち上げるのがやっと!

腰が痛くなりそうなほど重たいはしごを抱えて、洞くつの中を探検していたとは、

その冒険心は計り知れませんね。

ちなみに、当時はまだ探検道具もきちんとしたものがなく、はしごなどこうした道具は

手作りしていたそうですよ。

こうした方々の努力があったからこそ、秋吉台や地下の洞くつが多くの人に親しまれているんだなと感じました。

 

今回お話を伺った美祢市の特別専門員の村上崇史さんによると、秋吉台の洞くつは、

そのほとんどがつながっていてもおかしくないとのこと。

もしかすると、秋芳洞が総延長日本一の洞くつになる日もそう遠くないのかも???

今年も秋芳洞周辺の洞くつの調査を行うということで、今後の発見からますます目が

離せませんね!

次回の思い出ISHINは6月17日(木)放送予定です。こちらもぜひご覧ください!

 

投稿者:アナウンス | 投稿時間:13時30分

ページの一番上へ▲