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こうして車は水没した 元刑事が陥った落とし穴

  • 2024年3月18日

冠水した道路に立往生するタクシーからバケツで水をかき出す運転手。去年(2023年)9月の台風13号の際に撮影された映像だ。この時の記録的な大雨で、千葉県と茨城県では620台もの車が水没する事態に陥った。なぜ、これだけ多くの車が水没したのか。私は映像に映っていたタクシー運転手を捜し出し、水没するまでの一部始終を記録したドライブレコーダーの映像を入手した。そこから見えてきたのは、誰もが陥りかねない、いくつもの落とし穴の存在だった。
(首都圏局/記者 桑原阿希)

「まさか自分が…」運転手は元刑事

少し恥ずかしそうな表情で、私の前に現れた男性。あの日、水没したタクシーから必死に水をかき出していた運転手・矢部延男さん(75)だ。映像からタクシー会社を捜し出し、ようやく面会することができた。当初、会社は取材は受けられないと話していたが、「大雨のたびに多くの車が水没している原因を知れれば今後の被害を防ぐことにつながる」と取材の趣旨を繰り返し説明した結果、「本人が良ければ」と紹介してくれたのだ。取材を受けた理由について、矢部さんは「自分の経験を伝えることで、ほかの人の役に立てれば」と語ってくれた。車の水没ついて聞くと…。

矢部延男さん
「運転にはちょっと自信がありました。まさか自分がこんなことになるとはという思いです」

こう語った矢部さん、実は運転手になる前は警視庁の刑事だったと明かしてくれた。人一倍、安全に気をつけ、無事故・無違反だったのに、どうして車を水没させる事態を招いてしまったのか。その原因を知りたいとタクシーに設置されたドライブレコーダーの映像を見せてくれた。

車水没の一部始終が記録・落とし穴(1)天気がもたらす油断

そこには水没に至るまでの一部始終が映像と音声で記録されていた。私は矢部さんに当時の状況や心境について聞くとともに、ドライブレコーダーの映像から何が読み解けるのか、大雨災害に詳しい静岡大学防災総合センターの牛山素行教授に分析を依頼した。

静岡大学防災総合センター 牛山素行教授
「この映像には誰もが陥りかねない落とし穴がいくつも潜んでいる」

こう語る牛山教授が、まず指摘したのは天気がもたらす油断。

◆ドライブレコーダーの映像:9月8日午後3時すぎ
矢部さんの車が水没した9月8日。矢部さんが千葉市内で客を乗せた午後3時すぎには、雨はほとんど降っていなかった。しかし、この付近では明け方から、あわせて366ミリの雨が降っており、牛山教授は雨がやんだ後も浸水に注意が必要な状況だったと指摘している。

「当時はほとんど雨が降っていない状況です。こういう時はすでに危険は去ったかのように思ってしまい気が緩みがちになりますが、浸水は雨がやんだ瞬間にひくわけではないので慎重に行動することが求められます」

落とし穴(2) 浸水状況がもたらす油断

次に指摘したのは場所によって異なる浸水状況がもらたす油断だ。

午後3時25分ごろの映像では対向車線の車が水しぶきを上げながら走行している様子が確認できる。しかし、しばらくすると道路に水がたまっている様子は見られなくなり、矢部さんは、その状況を見て大丈夫だと判断したと証言している。

矢部さん

雨が降ればこれくらいの水しぶきが上がることはあると思いました。ほかの車も通っていたのでそのまま行けると思いました。

この場面について、牛山教授は「浸水している場所」と「浸水していない場所」が交互に続く状況によって油断が生まれたと指摘。

牛山教授
「いったんヒヤッとしてもまたその先が通れれば大丈夫かなと思ってしまったりするかもしれませんが、それは落とし穴です。そういう状況が繰り返されたときは、進んだ先がさらに深くなっているかもしれないと考え、引き返すことも考えたほうがいいと思います」

こうして車は水没した…

◆午後3時29分
引き返すことなく、水没してしまった現場に近づいていく矢部さん。水没現場の手前の交差点にさしかかった場面を捉えた午後3時29分の映像には道路が浸水しているのに、「大丈夫だろう。行って」とつぶやき、そのまま進む矢部さんの姿が記録されている。

◆午後3時30分
その1分後の映像には水没している車を見た矢部さんが「逃げないとまずいや」と声をあげてハンドルを切って引き返そうとする様子が写っている。しかし、車の中に水が入り、エンジンが停止。矢部さんの車は動かなくなってしまう。

落とし穴(3) 見えない高低差

どうして矢部さんは、水没現場の手前の交差点で道路が浸水していたのに引き返さなかったのか。当時の状況について聞くと「横断歩道の線が見えているため浅いと判断した」と証言した。

矢部さん

下が見えたので水量も大丈夫だということですね。それで進んだわけです。

 

矢部さんの判断を誤らせた最後の落とし穴。牛山教授が指摘するのは「見えない高低差による落とし穴」の存在だ。実は交差点から水没現場にかけては緩やかな下り坂になっていて、高低差は50センチほどあるという。下り坂によって浸水場所は徐々に深くなっていたが、運転席からは高低差に気づくことが難しく誤った判断につながったと言うのだ。

牛山教授
「浸水していて下の横断歩道が見えるかどうかは目安にしてはだめです。浸水の始まりに過ぎないのでこの先がどうなっているかはわかりません。水がたまっているところがあったら、車が水没してしまうおそれがあるという危機感を持ったほうがいいかもしれません」

矢部延男さん
「通れると思うような道でも“落とし穴”があると痛切に感じました。こういう状況になるという予測が非常に難しかったです」

人間が持つ “心理的な癖” 自覚して

こうした落とし穴に陥らないようにするにはどうすればいいのか。防災心理学が専門の兵庫県立大学の木村玲欧教授にも話を聞いた。木村教授が指摘するのは、誰もが持っている「心理的な癖」を意識することの大切さ。

その1つ目が同調性バイアス。まわりの人の動きに合わせてしまう心の動きのこと。今回は「周りの車が走行しているから大丈夫」という同調性バイアスが、特に強く働いたのではないかと指摘している。

2つ目が、楽観主義バイアス。過去の経験を踏まえ今回も大丈夫だと思う心の動きのことだ。「以前、雨が降っていた時は問題なく走行できた」という経験によって、今回も大丈夫だと思ったのではないかと分析している。

そして、正常性バイアス。ふだんと違うことが起きていても、正常の範囲内と考えて、自分自身を安心させようとする心の動きのこと。今回は3つのバイアスによって、引き返す判断が出来ず、水没現場に向かってしまったのではないかと指摘している。

兵庫県立大学 木村玲欧教授
「災害時には人間誰もが持っている「心理的な癖」を自覚して行動することが大切です」

取材後記

当時の天候や道路の見えない高低差など、思いもよらないさまざまな要因が重なり合い、水没に至ってしまった。ふだんから知っている道路でも、災害時には表情を変えることがあるのだと、決して油断しないことが大切だと感じました。

矢部さんは「水没したときは激しい流れがあり、車ごと流されてしまうのではないかと恐怖を感じた」と話していました。

危険な状況に陥り、命を落とさないためにも、大雨の際はいくつもの「落とし穴」があることを心にとめてほしいと思います。

  • 桑原阿希

    首都圏局 記者

    桑原阿希

    2015年入局 富山局を経て首都圏局で遊軍取材を担当。運転免許取得して10年余。雨の日の運転は気をつけたい。

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