81年前の12月8日、旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入しました。
戦時中、東京・武蔵村山市には戦闘機の操縦士などを養成する「陸軍少年飛行兵学校」がありました。
都内に、この学校の生徒だった94歳の男性がいます。
飛行兵に憧れて入校した少年。
しかし、目の当たりにしたのは、戦況の悪化とともに増す「戦争の狂気」でした。
(首都圏局/記者 中西大)
東京・福生市に暮らす渡邉宜信さん(94)は「東京陸軍少年飛行兵学校」の生徒でした。
当時、16歳だった渡邉さんはポスターなどで見た少年飛行兵に憧れて故郷・新潟を離れ、昭和19年、操縦士を目指し入校しました。
渡邉宜信さん
「ポスターが貼られていまして格好いい少年飛行兵の。革の飛行帽にこんな大きい眼鏡してね。大空45度を見ているそういうポスターだったんです。
当時は16歳ぐらいですから、とにかく格好いいのに憧れて、それで試験受けたんですね」
「少年飛行兵」の制度は昭和8年に創設されました。
その後、軍は航空機による攻撃の重要性が高まったことなどから飛行兵の養成を急ぎ、昭和13年、武蔵村山市に養成学校が作られました。
昭和18年には入校年齢が14歳に引き下げられ、東京のほか、大津、大分にも学校が設置されました。
戦争で犠牲になった少年らはおよそ4500人で、このうち1割は特攻隊で死亡しました。
グライダーの訓練
少年飛行兵学校では普通学科や軍事学を学んだほか、体操や剣術などの訓練が行われました。渡邉さんも、当時エリートとされた操縦士を目指し、厳しい訓練を受けていました。
しかし、戦況が悪化するにつれ、訓練は爆弾を抱え敵に近づくという、地上戦に備えるものになっていったといいます。
「手投爆雷」
当時、兵士に持たせたとされる爆弾です。
渡邉宜信さん
「少年飛行兵学校のグラウンドは広くて、陸軍の古い動かなくなった戦車が一両置いてあった。それを敵の戦車と見立てて近づいて、敵の戦車が動いているであろうと想定して戦車に入っていって爆弾を押しつけて伏せるような訓練。
そういう訓練を何回も繰り返したんですね。一歩間違えれば“決死”っていうか、うまくいって離れることはできるけど死んでもいいっていうつもりですからね。本当にそう思っていました」
東京大空襲
日本の敗戦色が強まる中、昭和20年3月の東京大空襲では10万人が犠牲になりました。4月には多摩地域も空襲を受け、少年飛行兵学校の生徒4人と職員1人も死亡するなど、渡邉さんの周りの人たちも犠牲になります。
4月24日。
日立航空機立川工場を爆撃したアメリカ軍のB29爆撃機が1機、立川市の玉川上水周辺に墜落。
当時16歳だった渡邉さんは上官に連れられ、その現場を見に行きました。
渡邉宜信さん
「死んだ敵の飛行兵がいた。B29は11人か12人乗れるんですけどね。みんな燃えちゃったんだかなんだか。われわれが目にしたのは6人いました。兵士たちはろう人形のようになってしまっていて頭もカラカラになって手足が燃えてしまっていた」
アメリカ兵の遺体はいずれも激しく損傷。立ち尽くしていた渡邉さんに、上官は、ある命令を下します。
渡邉宜信さん
「上官が『敵愾心の高揚の養成だ』と言って、1人ずつ頭を蹴って『次ハイ次!』って。そのアメリカ兵の頭を足で蹴った。雑念はなかったですね。純粋に蹴った。
正直言ってね。それは今考えてみればずいぶん非人間的な、死んだ人間の頭を蹴るなんていうのはとんでもない話だと思うけど、当時はそれが当たり前だったんです。そういうことだと思うんです」
少年時代の渡邉さん
飛行兵に憧れた少年が目の当たりにしたのは、自爆攻撃の訓練や、敵兵の遺体を蹴るよう命令される、まさに「戦争の狂気」だったのです。
渡邉宜信さん
「(米兵の遺体が)本当にこんなんなって。今でも目に浮かびますよ。戦争は人間同士の殺し合いですからそれ以外何もないです。終戦後、育てられた人たちは想像もつかない世界だったですね。こういうことをやっちゃいけない」
渡邉さんはこの夏、地元で講演し、こうした戦争体験を語りました。
今なお、世界で現実に起きているであろう「戦争の狂気」。
渡邉さんは、子どもたちに同じ経験をさせたくないと、強く願っています。