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イトーヨーカドー津田沼店 閉店を検討 スーパー・百貨店「津田沼戦争」とは 千葉 習志野

  • 2024年03月22日

大手スーパー「イトーヨーカ堂」。習志野市にある「津田沼店」は、2024年9月ごろに閉鎖する方向で検討が進められています。

新京成・新津田沼駅直結で、かつては多くの売り上げを誇った津田沼店。

1970年代、津田沼駅の周辺には西友、ダイエー、高島屋なども相次いで進出し、しれつな競争から「津田沼戦争」とも呼ばれました。

「戦争」の歴史をひもとくと、消費をめぐる社会の変化が見えてきました。

(千葉放送局記者・荻原芽生)

イトーヨーカ堂 各地で閉店

イトーヨーカ堂は業績の不振が続き、店舗の削減を含めた構造改革を進めています。

こうした中で、首都圏の6店舗でも閉鎖を決めたり、閉鎖を検討したりしていることが明らかになりました。

津田沼店のオープンは1977年。当時、津田沼駅周辺には総合スーパーや百貨店が相次いで出店し、「津田沼戦争」と呼ばれるしれつな顧客獲得競争が繰り広げられました。

画像提供:船橋市郷土資料館 撮影:手塚博禮

「津田沼戦争」の時代

1978年のNHKニュースより

東京駅と千葉駅のほぼ中間にあたります津田沼に、また、大きなショッピングセンターができました。

1978年にオープンした「ダイエー」。特売のストッキングには、多くの買い物客が殺到しました。

1978年のNHKニュースより

その手には20円が握られています。

1978年のNHKニュースより

津田沼駅前には多くの人たちが列を作りました。

1978年のNHKニュースより
1978年のNHKニュースより

1970年代、津田沼駅周辺に出店したのは、総合スーパーの長崎屋、西友、イトーヨーカドー、ダイエーなど。それに、百貨店の高島屋、マルイなど。

画像提供:船橋市郷土資料館 撮影:手塚博禮

中小の商店を守るため、大規模な店の規制が強まりつつあった時代。制度が変わる直前の駆け込みで出店が相次ぎ、「津田沼戦争」が始まりました。

 「津田沼戦争」当時を知る人は…

当時を知る人に話を聞きました。津田沼で生まれ育った、大塚明彦さん(85歳)、智明さん(51歳)の親子です。

1970年代、父・明彦さんは駅近くで金物店を営み、息子・智明さんは子ども時代を過ごしました。消費者として、価格競争の激しさを楽しむ部分もあったといいます。

大塚明彦さん

客寄せのために、卵の10個入りパックや生のサンマを無料で配っていたこともありました。

卵はある店が88円なら、別の店は87円にする、といった1円単位の対抗措置が取られていて、消費者としては、次はいくらになるのかという期待もあったし、面白みもありました。

1978年のNHKニュースより
大塚智明さん

パルコさんは無料で、地域の子どもたちを集めてキャンプに連れてってくれたりもしていました。

大型店なりの戦略で、それぞれ頑張ってたんだなと思います。

明治のころから代々、駅前の商店街で商売を続けてきた大塚さん一家。

大型店どうしの激しい競争があった一方、地域全体の活気が生み出されたといいます。

大塚智明さん

大型店と商店街って、衝突することもあるかと思いますが、津田沼では非常に友好的でした。

以前はなかったお店が進出してくることで、新しい消費者がこの津田沼に集まってきました。

1978年のNHKニュースより

「戦争」は“消耗戦”に…

しかしその後、津田沼の駅前は時代とともに変化していきます。

1988年、高島屋が激しい競争の中で売り上げを伸ばすことができず、撤退。

2000年代には、専門店のチェーンや大型ショッピングモールが台頭し、ダイエーやマルイが閉店します。

そして2023年、駅北口の「顔」だったパルコが、46年の歴史に幕を閉じました。

「津田沼戦争」の生き残りは、イトーヨーカドーだけになりました。しかし、その店も2024年9月で閉鎖する方向で検討が進められています。

大塚智明さん

47年間、津田沼を一緒に盛り上げてきた仲間が閉店してしまうなら、本当に残念です。

地域の商店街で協力しながら、街に少しでも賑わいを取り戻せるように頑張っていきたいです。

現在の津田沼駅前

「津田沼戦争」が示す“消費の変化”

流通政策に詳しい早稲田大学教育・総合科学学術院の箸本健二 教授に、「津田沼戦争」について聞きました。

荻原記者

1970年代、津田沼駅前に総合スーパーや百貨店の出店が相次いだのはなぜでしょうか。

箸本教授

当時は、中小の商店を守る目的で、「大規模小売店舗法(大店法)」によって大型店の出店規制が強化されていったことがあります。

制度が変わる直前、駆け込み的に、全国各地でターミナル駅の周辺にスーパーや百貨店が大量に進出しました。

津田沼だけでなく、東京・北区の赤羽や神奈川県の藤沢などでも、激しい出店競争がありました。

荻原記者

駅前の総合スーパーなどが撤退に追い込まれていったのは、なぜでしょうか。

箸本教授

出店が相次いだ1970年代は、いわゆる「1億総中流」と言われ、横並びの消費意識が強い時代でした。このため、「衣・食・住」をそろえられる総合スーパーは輝いていたわけです。

しかし、2000年代に入って衣料品、住宅関連用品に特化したチェーンストアが台頭し、需要を奪われるようになります。

消費者の行動や小売業界のあり方が変わり、いまでは「衣・食・住」をすべて持っていることが負担となってきたため、閉店ラッシュが続いていると思います。

1978年のNHKニュースより
荻原記者

津田沼駅周辺では、2003年にオープンした、イトーヨーカドーの裏手にあるイオンの大型ショッピングモールが近年、存在感を示していますね。

箸本教授

人口減少が進む中では、広いエリアで顧客を獲得できる、駐車場を備えた大型モールが有利になりつつあります。

いまの時代は、モールどうしが広いエリアで競争する形に変化しているのではないでしょうか。

「首都圏ネットワーク」での放送の内容は、「NHKプラス」で3月29日(金)午後6時30分までご覧いただけます。

※記事の中で箸本教授の肩書きに誤りがあり、3月24日に修正しました。失礼しました。

  • 荻原芽生

    千葉放送局記者

    荻原芽生

    3月から遊軍担当。 今後の津田沼の発展が楽しみです。

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