ページの本文へ

  1. 首都圏ナビ
  2. ちばWEB特集
  3. 津田沼パルコ閉店 最後の店長が目指す「ハッピーエンド」とは

津田沼パルコ閉店 最後の店長が目指す「ハッピーエンド」とは

  • 2023年02月27日

地方都市のファッションビルが閉店するのは、近年、珍しいことではありませんが、2年前、津田沼パルコの閉店が発表された際には、SNSに惜しむ声や思い出話の投稿が相次ぎ、トレンド入りするほど話題となりました。
この地域でいかに店が慕われてきたかを改めて実感した店長は、閉店を前に、「恩返し」をキーワードに奔走しています。

(千葉放送局記者 金子ひとみ)

津田沼パルコ最後の店長 野口香苗さん

津田沼パルコは1977年(昭和52年)7月1日、船橋市と習志野市にまたがるJR津田沼駅北口の目の前に開業しました。店舗面積4万8000㎡に、およそ140のテナントが入り、1200人ほどがこの地域の経済の一端を支えています。

5年前からビル全体の店長を務めているのが、野口香苗さんです。これまで、東京、札幌、名古屋、広島、熊本など全国各地の店舗で勤務してきました。

野口店長

津田沼店はかつては、最先端のファッションやカルチャーの発信基地だったと思いますが、時代とともに役割が変わり、サンダル履きでも気楽に来ることができる商業施設のような位置づけになってきました。献血ルームがあるのも珍しいと思います。地元密着度の高い店舗です。

“津田沼戦争”を生き延びて

1978年の津田沼駅

津田沼駅の北側には1977年(昭和52年)から西友、パルコ、イトーヨーカドー、丸井が出店。一方、南側にはダイエーと高島屋が出店し、わずか2年の間に6社が進出するなど、昭和50年代は「津田沼戦争」とも形容されるような流通激戦区でした。

1978年

しかし時が経ち、流通業界やライフスタイルの変化に伴って、「津田沼戦争」を戦った店舗は次々と撤退していきます。そうしたなかでパルコは、文化発信に軸足を置く独自路線で生き延びてきました。

(パルコは)ちょっとグレードの高いお店かなという感じがしていました。ファッションセンスの良い場所だなと思っていました。

シンボル的な建物で、津田沼といえば『パルコ』。地元民の誇りでもあると思います。ちょっといい食べ物や服を買うのによく利用してきました。

2021年2月24日閉店発表のNHKニュース

しかし、2021年2月、親会社が津田沼店の閉店を発表します。

近隣の幕張や南船橋などで大型ショッピングモールの進出が相次いだほか、ネット通販の台頭も影響し、年間の売り上げは、ピーク時からおよそ4割減っていました。

野口店長

かなりショックでしたけれども、真っ先にやはりうちのスタッフやテナントのショップスタッフががっかりするだろうなっていうのが、第一に頭に浮かびました。

予想に反して・・・

2016年11月 千葉パルコ閉店の様子

2016年の千葉店閉店に続いて津田沼店が閉店すると、パルコの千葉県内の店舗はゼロになります。野口さんは、怒りや失望の声が上がるのではないかと考えていました。

当時寄せられた投書

しかし、予想に反して寄せられたのは、地元の人たちからの感謝の声や楽しい思い出話の数々でした。

野口店長

初めてのデートをしたのがパルコだったとか、初めての給料でお買い物したのがパルコだったとか、映画館もあったので、映画館でこういう映画を見たとか、そういった温かいエピソードをみなさんが非常にたくさんツイートしてくださいました。パルコの閉店はこれまでもいくつかありましたが、こんなに思い出が語られるのは、津田沼だけなんじゃないかな。非常に驚くとともに、本当ありがたいな、と思いました。

「恩返し」を

津田沼店がいかに地元の人たちに愛されてきたかを実感した野口さん。閉店までの間に、地域や顧客への恩返しをしたいと強く思うようになり、地域を盛り上げる仕掛けを次々と打っていきます。

①フリーペーパーの発行

閉店発表の5か月後からこれまでに、「津田沼とパルコ」と題したフリーペーパーを9回発行しました。

テナントスタッフ紹介のほか、地元商店会や市の郷土資料館のコーナー、それに地域の人たちなどのエピソードも紹介しました。

②プロジェクション・マッピング

去年12月には、地元の商店会や大学、駅周辺のほかの大型商業施設などと協力して、ビルの壁面に映像を投影するプロジェクション・マッピングを企画します。「パルコの中に隠されていたタイムマシンが、津田沼の過去から現在、未来を旅する」というストーリーの映像を映し出し、2日間で、のべ5万人が訪れる大イベントとなりました。

以前から津田沼にはよく来ていますが、自分の生まれる前の映像が印象に残っています、これからの街の変化にも期待したいです。

こんなに多くの人が来ているとは思ってなくて、自分が長年親しんだ津田沼が愛されているんだなと改めて思いました。きょう来て良かったです。

当時のイベントの記事はこちら
津田沼プロジェクションマッピング

③屋上開放

かつてパルコによく通ったという地元出身のDJ、阿部新太郎さんの「音楽イベントを開きたい」という声に応えて、2月16日には、店舗の屋上を開放しました。

イベントに集った人たち
野口店長

30年以上仕事してきてこんなに働いたことはないぐらい、今、動き回っています。パルコは、この津田沼から撤退してしまうんですけれども、津田沼の街はずっと残っていくので、最後に盛り上げたい、街を元気にしたいという気持ちでやっています。

津田沼では毎月、ライバルでもある大型店同士が集まって、周辺の清掃活動を行っています。2月11日は、野口店長らが参加する最後の日でした。

野口さんは感謝状を授与されました。「津田沼戦争」も今は昔です。

イオン津田沼店
岡澤譲治 店長

野口さんはわれわれを引っ張って元気づけてくれる存在でした。パルコさんがなくなっても、津田沼という駅が通過駅になるのではなく、空洞化せず、多くの方が集っていただけるように、商店街、行政、各ショッピングセンターが力をあわせて、イベントを実施して、みなさんの思い出に残るような町にしたい。われわれショッピングセンターも時代とともに進化をしていきたいと思っています。

閉店へ

2月28日午後9時、津田沼パルコは45年の歴史に幕を閉じます。

地元の大学と協力して店舗内に設けたメッセージボードには、多くの人が思い出や感謝の気持ちなどを綴りました。

野口店長

閉店というのは、すごくマイナスなことに思われるかもしれませんが、ハッピーエンドというか、お祭りのような形で明るく終わりを迎えるといいなと思っています。お客様も、ショップスタッフも、街の人も、盛り上がって、『楽しかったね』という思い出につながってくれるといいなと思います。

取材後記

津田沼パルコ閉店に関する話題は、なぜ毎回、関心が高いのだろうかと考えてきました。津田沼が交通の要所で、高校や大学、予備校が集中している「若者の街」で、青春時代に訪れたことのある人が多いからだと思います。もう一つは、ここが百貨店でもスーパーマーケットでもなくファッションビルだったからというのも関係しているのではないかと思います。商品を買うためだけではなく、ふらりと立ち寄って楽しい時を過ごしたという思い出がよみがえるのではないでしょうか。

野口さんは、パルコの発行していた「ゴメス」というサブカルチャーを題材としたフリーペーパーを愛読していたことが入社のきっかけだったそうです。オリジナリティーあふれる今回の野口さんの仕掛けの数々に刺激を受けて動き出す津田沼の若者が新たに生まれたのではないかと思います。

  • 金子ひとみ

    千葉放送局 記者

    金子ひとみ

    船橋市も習志野市も担当しています。船橋駅周辺、津田沼駅周辺でよく買い物をします。

ページトップに戻る