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パルコのあとどうなる? 津田沼は「変化しながら発展する街」

  • 2023年03月03日

閉店の日は一時、「つだぬまパルコ駅」「津田沼パルコ」がSNSでトレンドに入り、多くの人が「津田沼」に注目しました。地元の商店会長によると、津田沼は「変化をし続ける街」なのだそうです。みなさんが過ごしたことのある「津田沼」のこと、この機会に少し調べてみました。

(千葉放送局記者 金子ひとみ)

津田沼パルコ閉店

2月28日、津田沼パルコが45年の歴史に幕を下ろしました。午後9時、建物の壁にレーザー光線で「PARCO」「Thank you TSUDANUMA!」とメッセージを表示した閉店セレモニーには、長年親しんだ店舗と最後の別れを告げようと、多くの人が訪れました。

「Thank you TSUDANUMA!」の文字をデザインした小野さんの記事はこちら 
津田沼パルコと過ごした30年 閉店は残念 感謝の気持ちも

最後、「バイバイ」とあいさつした店長・野口香苗さんの記事はこちら 
津田沼パルコ閉店 最後の店長が目指す「ハッピーエンド」とは

「どんな形に変わるのか楽しみ」

閉店を「さみしい」「残念」と答える人が多い中、パルコも所属していた地元・船橋市前原商店会会長の大塚智明さん(48)は少し違った受け止め方をしていました。

大塚さん

45年間ともに過ごしてきたパルコさんからいきなり別れを告げられたのはショック以外のなにものでもないんです。でも、B館は、Viit(ビート)という商業施設になります。新しい人が挑戦する、新しいことが生まれるきっかけになるという意味においては、決して悪いことではないと思うんです。どんな形に変わっていくのか楽しみです。大型店が撤退して別の店が入るのは津田沼の歴史の中では珍しいことではないんですよ。

津田沼、その昔

みなさん、「津田沼」の名前の由来ってご存じですか?

実は、1889年(明治22年)、谷村、久々村、鷺村の3つの村から1文字ずつ取って名付けられました。

陸上自衛隊習志野駐屯地

JR津田沼駅から車で10分ほどのところには陸上自衛隊の習志野駐屯地がありますが、昔からこのあたりには陸軍の施設が数多くあったそうです。

大塚さん

このあたりは、御用商人的なかたちで商品を納めたり、軍人さんやその家族に買い物や食事してもらったりして成り立ってきました。うちは、曽祖父が金物屋を開いたのが始まりです。私は大学卒業後、貿易関係の会社で働いていましたが、15年ほど前に戻ってきました。他の方がここでコーヒー豆の店をしていたのを引き継いだほか、ビル管理なども行っています。

大規模区画整理で今の形に

ビル建設前に(真ん中が大塚さん)

1970年(昭和45年)、千葉県による「津田沼駅北口土地区画整理事業」が始まり、市街地の道路拡張や商業区画の整備が進み、津田沼駅周辺は大きな変貌を遂げました。

大塚さん

いったん商店会の店は全部取り壊され、仮設店舗で営業した時期もありました。区画整理後、各店舗は複層ビル化するようになりましたが、全ての階を自分たちで使って商売するのは難しい、誰か別の方に貸して使ってもらうという方法が形成されていきました。

「津田沼戦争」、スーパーに塾に

1978年ごろ

1970年代から1980年代にかけて津田沼駅周辺は、相次ぐ「激戦」の地となります。まず、1977年から2年間で西友、パルコ、イトーヨーカドー、丸井、ダイエー、高島屋の6社が進出するなど、「津田沼戦争」と言われる流通の激戦区として名をはせました。

1983年ごろ 塾の開校記念講演会

続いて学習塾間の競争も活発になり、中学・高校受験向けの塾に加え、大学受験のための大手予備校も次々進出します。千葉県全域や県外からも津田沼で浪人生活を送る若者が多くいるのは、今も変わりません。

大塚さん

新京成線沿線に団地や寮がたくさん建ち、若い人たちやファミリー層がこの周辺に多く住んでいたのが影響しているのでしょうね。千葉工大や日大のほか、今は移りましたが順天堂大もあったので学生の街という雰囲気もあります。

逆風も

北総鉄道

ただ、北総鉄道や東葉高速鉄道が開通し、近隣の白井や印西、鎌ケ谷、八千代などに住んでいる人が津田沼を経由しなくても都内に出られるようになりました。
また、幕張や南船橋などで広い駐車場を備えたショッピングモールが次々とオープンします。
これらは、駅への近さをいかした一大商業地の津田沼にマイナスとなっていますが、大塚さんはポジティブにも受け止めています。

大塚さん

交通やライフスタイルの変化は、逆風となっているのは確かです。でも、大型商業施設ではハードルが高くてなかなか店を持つことができないという人が、津田沼のこのモザイク的でマニュアルのない商店会の中だったらできるかもしれないと考えられるのは今も変わらない。個人が挑戦できる可能性が大きいのは強みだと考えています。

変化することで発展

大塚さんは、津田沼は、常に変化をすることで発展してきた街だと言います。

大塚さん

丸井はミーナに高島屋とダイエーだった建物はディスカウントショップを経てモリシアに変わった。モリシアの中にはダイエーが再出店している。プレイヤーの変更は、この50年ほど繰り返されています。去る方がいても、魅力を感じて来てくださる方がいるのはありがたいです。
商店会にとって、大型店があることで地域に活気が出るというのは大事なことです。新たに手をあげる人がいれば、仲間として受け入れようという空気は広がっていると思います。

パルコなくても、面白いことやるぞ

船橋市前原商店会は、地域活動が非常に熱心なことでも知られています。コロナ禍では、街路灯のフラッグに事業者の広告とともに子どもたちの絵も載せたり、津田沼駅のホームやパルコの店内で、習志野市と船橋市の市境を親子で探してもらうラリーを行ったり、工夫をこらした催しを頻繁に開催しています。

大塚さん

学校の先生が、『子どもたちの思い出作りがなかなかできない』と言っているのを聞きました。学校や市だとなかなか手を出せないことでも、民間だったらできるかもということで、子どもたちがこの街に愛着を持つきっかけになる試みは、次々と行うよう意識しています。

そして、「三線(さんしん)の日」として知られる3月4日には、三線演奏や琉球舞踊のステージや体験コーナーを組み合わせた初のイベントが企画されています。なんと、沖縄のラジオ局と津田沼を結んで、電話中継も予定されているそうです。

大塚さん

沖縄出身の方が商店会の新しい会員になってくれたんです。音楽関係のつながりがあるというので早速企画しました。ポスターもデザインが得意な新しい会員の方にお願いしました。新規会員の方たちは、商店会に新しい風を入れてくれる存在です。
あとやっぱり、『パルコがなくなったら、津田沼さびれちゃったよね』と思われたくない。パルコがなくなっても、面白いこといろいろやってるぞっていうのはどんどんPRしていきたいです。

変化をおそれず

船橋市前原商店会

最後に、大塚さんが津田沼をどのような街にしていきたいと考えているのかを聞きました。

大塚さん

年配の方には「住んでよかったな」と、そして子どもたちには「大人になっても住みたい、帰ってきたい」と思ってもらえる街にしたいです。郊外のニュータウンや都心と規模で張り合うことは考えていません。「津田沼って味があって面白い店、信頼できる店がいっぱいあるよね。同じような街って他にないよね。治安もよくて安全だよね」と思ってほしいですね。そのためには、アンテナを張って、地域の住民の方や行政、警察など関係者の方々と密に連携を取りながら、守るべきものは守り、新しいことに挑戦できる街、変化し続ける街にしていきたいと思います。時代にあわせて商店会自体も変わっていかなきゃいけないと思っています。

取材後記

津田沼パルコ閉店にあわせて、ちばWEB特集で、さまざまな人を紹介してきましたが、今回が最後です。津田沼特集を展開したいと考えた当初から、最終回は大塚さんを取り上げようというのは自分の中で決めていました。「パルコロス」の方々に大塚さんたちの考え方や行動を知ってほしいと思ったからです。
パルコ店長の野口香苗さんが「パルコはなくなっても津田沼はずっと残っていく。ずっとパワーのある街であってほしい」と話すのを聞きながら「そりゃそうだ、パルコがなくなったあと、津田沼がどうなっていくか、どうしていくかが大事なんだ」と考えました。
大塚さんをはじめ、津田沼地区の商店会のみなさんは、常々オープンでフレンドリーです。冷静に状況を見ながら、おごらずチャレンジを続けていく姿勢をこれからも応援したいです。

  • 金子ひとみ

    千葉放送局記者

    金子ひとみ

    船橋市も習志野市も担当しています。船橋駅周辺、津田沼駅周辺でよく買い物をします。

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