キャスター津田より

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。基幹産業が漁業で、震災では3千戸あまりの住宅が半壊以上の被害を受けています。人口は約1万3千、震災前と比べて4千人以上減少しました。

 

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

まず、中心部の志津川(しづがわ)地区を回っていると、大勢の人が田植えをしているのを見かけました。子供から大人までの約100人が、去年再開した田んぼに素足で入り、手で苗を植えています。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

地元の親子や高校生、日本在住の外国人、遠くは和歌山から来た親子もいました。実行委員を務める50代の農家の男性に聞くと、色の違う苗で名産品のタコを描く"田んぼアート"に挑戦するそうです。男性は、"何かイベントを開けば、それだけ町に人が集まるから…"と言いました。ほ場整備に6年もかかり、多くの農家が再開を諦め、集落に約60戸あった農家は4戸に減りました。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

男性の農地も浸水し、農機具も自宅も流されました。母親も津波で亡くし、現在は妻と子供3人との暮らしです。毎日4時に起きて田んぼと畜産の仕事にとりかかり、日中は建設会社でも働いているそうです。

「個人的には、もう"億単位"の被災なんです。特に牛の繁殖をやっていた関係で、90%以上の牛が流されて、一番痛かったのは施設(牛舎)ですね。去年あたり、だいたい元の頭数まで復旧しています。まあ、それも借り入れ…借金ですからね。震災の時は一番大きな子で高校2年、小さいので小学3年生かな。やっぱり食べていかなきゃ…生きていかなきゃならないんでね。1人、2人の力ではなんともなりません。やっぱり、皆さんの協力でここまでたどりつきました」

南三陸町に限らず、漁業を主力産業とする市町村では、どうしても農業への支援が後手に回った感は否めません。自宅を去年11月にようやく再建、この秋には収穫祭も予定しているそうです。

 

次に、戸倉(とくら)地区に行くと、国道沿いに水産加工品の直売所がポツンと建っていました。

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店主の60代の夫婦に聞くと、震災前は所有する5隻の船で漁業に従事し、水産加工場も40年続けたそうです。船や施設の被害額は1億円を超え、自宅も流されました。ワカメ養殖や加工業を再開し、おととしには自宅も再建しましたが、事業の売り上げは震災前の半分にとどまっています。この直売所には、ホヤやワカメの加工品と一緒に、奥様の手作りケーキも並んでいました。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

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ケーキ販売は奥様の夢でした。

「ウチの加工品を卸していたお客さんが、震災後もずっと待っていてくれたのね。エールを送ってもらっているので、そのためにも頑張ってやってきました。海のもの(加工品)はお父さんが好きでつくって、私は合間にケーキを作って…。好きなもの作るって、楽しいよね。何とも言えません」

 

その後、以前取材した方を再び訪ねてみました。

震災から5か月後、屋根も壁もないコンクリートの土台の上で、農機具の修理をしている60代の男性に出会いました。

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その男性は、こう言っていました。

「海に浸かったトラクターを修理しているところ。お金だけじゃないかなって思うんだけどね。"もうダメだ"って思ったものが動けば、今はそれでいいんじゃないかなって。本当に、微力ながらですよ」

あれから7年…。以前出会った場所の近くにテントがあり、男性はそこで、機械を修理する仕事を続けていました。新たな土地を無償で借り、流された作業道具を買い戻すなどして、これまでに13台のトラクターを再生させました。現在は何とか浸水を免れた高台の自宅で、妻と息子夫婦の4人暮らしです。

「今は機械の修理だけでなく、田んぼの代かきや畑作業も請け負ったり、代行車検もやっています。忙しいといっても、金になる忙しさじゃないんだけどね。お金も無いギリギリの中で無理してトラクターを買ったから、もう少し使いたいとか、じいちゃんの形見だから直してくれとか、いろいろ言われました。元気なうちはここでやろうと思います。ここで50年ですよ…頼られているってわけじゃないけどね」

 

また震災直後、内陸の登米市(とめし)の避難所では、60歳の男性と出会いました。当時は津波被害が大きすぎて、避難所すらも隣の町に設置せざるを得ない状況でした。

「私も漁師ですから、陸(おか)に上がれば何もできないので、できればまた海の仕事をしたい気持ちはありますけど、これから再起をしても10年はかかると思うので、年齢的に間に合わないような気もしますが…まあ、少しでもやれたらという願いはあります」

あれから7年…。男性は地元の戸倉地区で、カキ養殖を再開していました。

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震災の年、国の支援事業などを利用して養殖の準備作業に着手し、震災翌年にはカキの水揚げを再開しました。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

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おととしの暮れに自宅も再建し、現在は孫も含めて家族5人で暮らしています。

「あの時10年って言ったけど、思ったより早かったね。やっと去年くらいから養殖の見通しも出てきて、安定してきましたし。"応援に来てくれた大勢の方々の真心に応えなきゃ"という強い思いで、復活が早まりました。60kgもの砂利が入る養殖イカダの重石(おもし)を、大勢のボランティアさんが来て、手作業で作ってくれた…戸倉だけで15万とか16万個ですよ。イカダを支えているのはボランティアさんなんだって、海を見るたびに思い出します。6月2日放送「宮城県 南三陸町」人に笑われないよう、やれるうちはずっと続けます」

 

今回の皆さんがいずれも前向きに感じられるのは、町の復興が少しずつ形や数字に現れるようになったことと無関係ではないでしょう。仮設住宅では、当初の入居戸数の97%は退去しました。災害公営住宅や集団移転の宅地の整備は、1年以上前に全て完了しています。中心部には大型スーパーやホームセンターができ、10の診療科目を持つ総合病院もすでにあります。最新式の市場も、おととし完成しました。もちろん今後の課題も深刻で、例えば商店街は、大幅な人口減少で地元の購買力に頼れず、観光客が離れれば一気に傾きます。"復興が目に見えたから明るくなった"と語るのは表面的で、"新たな覚悟が生まれたことで、気持ちが高ぶっている"という表現が正確なのかもしれません。

 

さてこの他にも、今回は、これからの町の発展に挑戦する20代の若者たちに出会いました。地元の魚介類を楽しむイベント「福興市(ふっこういち)」を訪ねると、町の観光協会が自転車ツアーをPRしていました。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

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企画したのは、町出身の24才の男性職員です。ツアーは今年5月に開始したばかりで、杉林を抜けたり、田んぼが常に見える道を通ったりしながら、地元の神社やお菓子屋さんなどに立ち寄ります。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

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休憩所は、コース沿いにある一般家庭です。訪ねた家では、地元らしい"お茶っこ"(お茶を飲みながらの交流)を楽しみます。企画した男性が好きな町の暮らし、なりわいを感じてもらうのが目的で、よくある震災ツアーではありません。この男性は高校2年で被災し、自宅は流されたそうです。仙台の大学を出てすぐ町に戻り、現在は集団移転先の団地で、家族と暮らしています。

「震災後、日常に戻るのが精いっぱいで、いつの間にか卒業してしまったので、地元にいながら町のために何もできなかった感覚が、ずっと残っていました。だから大学では、全国の同世代を地元に集めて、町を紹介する活動を自主的にやっていたんです。語り部とかをやって、人に故郷を紹介するって面白いなと思って…。6月2日放送「宮城県 南三陸町」今は帰ってきて良かったって、心の底から思えます。僕が作った場にみんなが集まって、友達が増えるとか、きのうより今日が楽しいと言ってくれる人が増えたら、うれしいです」

 

また、去年7月に再開した海水浴場では、「ビーチアルティメット」という競技を楽しむ若者たちに出会いました。

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「ビーチアルティメット」は、プラスチック製の円盤をパスしながら敵陣の得点ゾーンに攻め込むスポーツです。

6月2日放送「宮城県 南三陸町」

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ここにいた23歳の女性は、去年、南三陸町で開かれた東北初の大会で、実行委員を務めました。出身は神奈川県で、ボランティアが縁で大学卒業後に移住し、現在は農協で働いています。

「この町の雰囲気も、人も、食べ物も全部好きで、こっちの漁師さんが私の祖父母代わりみたいに、実家みたいに接してくれて、居心地よすぎて…。去年の大会では、参加賞をホタテ焼きにしたり、優勝景品を地元のものでそろえたり、"楽しい" "来年も来たい"って言ってもらえて、うれしかったです。よそから来た感じを出すんじゃなくて、大好きなこの町の人になります。この町の一員と思われる存在になりたいです。"被災地のために住んで、偉いね"みたいな感じがあるので、ただ楽しくて、周りにいい人たちがいて、楽しく住んでいるだけなんだって、1人でも多く知ってもらえたらと思います」

移住を望む人を念頭に、町では去年から、空きが出た災害公営住宅の入居者を、被災者に限らず募集しています。多くの人が一度は絶望を経験した町で、いま、若い力が躍動しています。

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