キャスター津田より

6月9日放送「福島県 南相馬市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県南相馬市(みなみそうまし)です。人口は約5万5千、全国的に知られる伝統行事「相馬野馬追(そうまのまおい)」が、毎年7月に開かれます。南相馬市は、原発事故による国からの指示や規制が、地域によってバラバラでした。福島第1原発の20km圏内や内陸の山間部には避難指示が出され、5年以上も住むことができませんでした(今は居住可能)。原発から20~30km圏内は、国から、"常に屋内退避や避難に備えるか、できれば自主的に避難せよ"という方針が示されました。ただ、これは事故の半年後には解除されました。さらに、最初から指示や規制が一切なかった地域もあります。

 

まず、原町区(はらまちく)に行き、

6月9日放送「福島県 南相馬市」

原発から20~30kmの地域を訪ねました。
ここにある原町高校は、原発事故で市外の仮校舎に移り、7か月後には戻りました。

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吹奏楽部では定期演奏会の練習が行われており、部長をはじめ3人の女子生徒と話したところ、部員は震災前より半減したそうです(全生徒数も半減)。

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震災当時、彼女たちは小学生で、それぞれ新潟や栃木などに避難しました。2年生の生徒は、

「自分の中で、震災は一番やっぱり大きな体験で、それによって友達の大切さとか、当たり前ということが当たり前じゃないということも知りました」

と言いました。また3年生の生徒は、

「たくさん、いろんな人に支えてもらっているから、私たちは音楽をやっているので、大好きな音楽で、支えてもらっている人に感謝を伝えられたらいいと思っています」

と言いました。

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後日開かれた演奏会では、500人近くの聴衆が、彼女達の演奏で大いに盛り上がったそうです。

 

また夜には、以前取材した方を再び訪ねました。

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原発事故からひと月後、内陸の二本松市(にほんまつし)の避難所では、創作太鼓「相馬野馬追太鼓」のメンバーだという、当時50代の女性に出会いました。

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自宅は南相馬市で、原発から26kmのところにあります。

「今年は無理かもしれないけど、一日も早く、みんなとまた練習したいです。一日も早く太鼓を復活させて、また元気になりたいって、心から祈ります」

あれから7年…。原町区内の公民館を訪ねると、女性が生き生きと太鼓の練習に励んでいました。私たちの取材の4か月後に自宅に戻り、避難のせいでメンバーは減ったものの、練習を再開したそうです。

「やっぱり思ったのが、伝統芸能とかお祭りとか、そこの土地に根付いたものを復活するのが、元気につながっていく"素"なんじゃないかなと…。実際、お客さんも本当に喜んでくださってね。太鼓が心臓に響く、体の奥底に響く、"この音を聞けて元気になりました"って言っていただいてね。太鼓がなかったら、私も今、どうしているだろうって…。太鼓で、気持ちも前向きになれたかなと思いますね」

これまでの皆さんは、原発事故の半年後には、地元に住む上での規制がなくなった方々です。それ以来かなりの時間が経過しているためか、声の中にも、落ち着きや前向きなニュアンスが感じ取れます。

 

次に、小高区(おだかく)に向かいました。

6月9日放送「福島県 南相馬市」

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原発から20km圏内にあり、2年前に避難指示が解除されましたが、今の人口は震災前の2割ほどです。住宅街で出会った70代の女性は、去年5月に帰還しました。野生動物に荒らされた家は解体し、新築の家に夫と息子夫婦の4人で暮らしています。

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80代の夫は、長期にわたる仮設暮らしのせいで、認知症を患ったといいます。

「主人も仮設にいたら危なかったよ。小高に帰ってきて歩けるようになったし、少しずつ思い出して元気になって、その点は戻って良かったなって…。でも近所とコミュニケーションがとれないんですよ。"こんにちは"って声をかけるぐらいで、話が続かないですよ。以前から付き合いがある隣組でも、避難した6年、7年のブランクはやっぱり大変です」

女性は人とのつながりを求めて、以前いた仮設住宅のラジオ体操に、今も車で通っているそうです。

 

次に、小高区で酪農が盛んだった集落を訪ねると、2年前に帰還した60代の男性に出会いました。

6月9日放送「福島県 南相馬市」

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夫婦で営んでいた酪農は、廃業したそうです。今は庭づくりが楽しみで、"毎日、庭の草むしりか、畑にいるかで、戻って来てほっとしますね"と言いました。

6月9日放送「福島県 南相馬市」

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男性は40頭の牛を残して避難し、34頭は餓死、生き残った6頭も殺処分せざるを得ませんでした。牛舎が見える場所に男性が建てた慰霊碑があり、"無念"と大きく刻まれています。

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私たちを牛舎に案内し、一部だけ細く変形した柱を見せて、言いました。

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「何も食べるものがなくて、柱をかじったんだなと思うと…なんか申し訳なかったと思うね。でも、どうすることもできなかった…。今でも、自責の念は忘れません。ずっと持っています」

男性はスタッフの前で涙を拭きながら、家族同然だった牛への思いや懺悔の気持ちを語り続けました。もはや再び牛を飼う気にはなれないそうですが、一方では牧草を栽培して、出荷も始めたそうです。

6月9日放送「福島県 南相馬市」

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「小高区に1000頭の牧場をつくる構想が出てきたんです。1000頭の搾乳…すごいことで、そこに餌も供給できるんじゃないかなと…。酪農には、ずっと関わっていきたいんですよね。人生がこんなふうに変わってしまったけど、時計の針は巻き戻すことができない…愚痴ってもしょうがない、とにかくこれからは、前を見て進むしかない」

 

さらに、以前、市内の避難所で取材した小高区の父娘を再び訪ねてみました。

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原発事故から2か月後に会った当時60代の父親は、娘とともにカメラに向かい、こう訴えました。

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「左官業をやっている者です。原発から20キロ圏内なんですけど、自由に仕事道具を取りに帰れないんです。警察官に"検問を通してくれ"と言ったら、"絶対ダメだ"ということなんです。腹が立って、"ここを突破するぞ"とまで言いました」

あれから7年…。市内の公民館で働く娘さんに会いに行くと、残念ですが、"父は5月1日に亡くなりました"と言われました。娘さんは現在も母親と仮設暮らしで、近々、自宅を修繕して帰還する予定です。お父様は震災の翌年には仕事を再開し、家の修繕などが相次いだため、忙しく働いていたそうです。娘さんは今も、避難さえなければ、父親はもっと健康だったはずだと感じています。

「根っからの職人さんなんですね。何よりも、自分の誇りに思っている仕事ができる…本人が一番生き生きしていたというのも、家族が見ていて分かりました。母親が病院に自宅の図面を持っていくと、ベッドの上で、こうしたほうがいいとか、いろいろ考えていたみたいです。必ず、父親を連れて、家族3人で小高に戻ります。そして形は違いますけど、3人で生活していきたいと思います」

ここまでの3人は、2年前にようやく地元に住めるようになりました。安堵や前向きな言葉もありますが、原発事故で受けた傷はなかなか隠せません。同じ自治体でも、地域の置かれた状況で、その心情は違います。さらに現実の面でも、医療費や介護保険料などの優遇措置、東電からの賠償額も地域ごとに異なり、市民の間には大きなわだかまりが残ったままで、事態をより複雑にしています。

 

さらに、鹿島区(かしまく)にある、当初から避難指示などが出なかった地域にも行きました。とはいえ、被害が無かったわけではありません。福島県は津波の被災地です。

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南相馬市の津波の犠牲者は636人で、県内最多です。実は、冒頭に声を紹介した原町高校の女子生徒の中にも、津波で父親を亡くした子がいます。今回、鹿島区で出会った30代の女性は、4世代8人で暮らしていましたが、津波で夫と義父母が今も行方不明だと言いました。当時35歳だった夫は消防団の活動中に被災し、遺体がないまま葬儀をあげたそうです。現在、女性は3人の娘とともに、災害公営住宅で暮らしています。

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「7年前に突然どこかに行ってしまったような…どこかに旅行に行っちゃった感じで、音信不通だけど、いつか帰って来るかもしれないという感覚で7年きてしまって…。周りに"現実を見なさい"って言われたこともあったんですけど、どう考えても、これで死んだんだって思えない…。今でも写真を飾るのも、線香あげたりするのも気が進まないのは変わらないんです」

女性は今年から、趣味だったイラストを再開しました。描いている間だけは、無心になれるそうです。

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「趣味とか、小さな楽しみをたくさん作って、明日の元気に変えようと思います。最近、娘も、"お父さん、こんなの食べていたよね"とか、"出かけた時、こういうことあったよね"とか、昔のささいな日常のことをしゃべたりするんです。そうやって自然に出てくることは、いいことかなって思っています」

 

福島で、津波被災者の思いをくみ取る思慮深さも、常に求められていると改めて思いました。

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