キャスター津田より

4月14日放送「福島県 川俣町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県川俣町(かわまたまち)です。福島第1原発の北西にあり、人口は約13000です。農業や繊維産業が盛んで、町の東側の山木屋(やまきや)地区に避難指示が出されました。約1200人が避難を余儀なくされ、その半数は、避難指示が出なかった町の中心部に移りました。ちょうど1年前、去年4月に避難指示が解除され、郵便局や診療所が再開し、日用品店や食堂が入る町直営の復興拠点施設もできました。

4月14日放送「福島県 川俣町」

現在、山木屋に住むのは震災前の人口の約25%ですが、同じようにちょうど1年前に避難指示が解除された他の3町村に比べれば、とても高い数字です(他では数%台も)。川俣町の場合、避難した人の半分は、同じ町の中で避難したわけです。つまり、避難や帰還といっても"地区の移動だけ"という人が多く、25%という数字に影響している可能性はあります。

 

まず、50年続く自動車修理工場に行きました。工場を経営する60代の男性は、町の中心部に家を建て、山木屋に通っています。男性は20年間、仕事のかたわらソバ畑をつくり、山木屋小・中学校の授業などで、ソバ打ちを教えてきました。

4月14日放送「福島県 川俣町」

山木屋地区は山あいの冷涼な気候で、昔は米もあまりとれませんでした。代わりにソバやアワを栽培してきた地域です。男性は山木屋のソバの原種を増やし、ソバ打ちを通して、子供たちが故郷に親しむ機会をつくってきました。おととしからソバづくりを再開し、去年は1トンを収穫、放射性物質の検査もパスして販売も許可されました。

「山木屋の畑や田んぼが荒れ果てていかないように、ソバをなるだけ多く作って、白いソバの花で戻った人や通りすがりの人にも、見て楽しんでもらいたいですね。あとは山木屋のソバはおいしいと、食を通して少しでも山木屋の復興の役に立ちたいですね。復興のための活動も、苦痛をともなって無理にやったのでは長続きもしないし、楽しみながら長くできるものが、ソバかな…という感じですね」

また、地区のはずれに行くと、6棟の真新しい農業用ハウスが並んでいました。山木屋出身の40代の男性が、花の栽培を始めるそうです。ハウスの隣に家を新築中で、男性は避難先の福島市から戻る予定です。もともと両親が花の栽培をしていて、男性は会社に勤めながら手伝っていました。原発事故後に農業に専念しようと決意し、地元でも初めてとなる"ディスバットマム"という花の栽培に挑戦します。

「会社を辞める時、母親にはかなり反対されましたね。勤めていたほうが安定するって。不安はありますけど、せっかく親がやってきたものを続けたいという思いもあったので。じいちゃんの代からずっとある土地を放っておいて、お墓参りに来てそういう光景を見た時に、俺もがっかりしますけど、うちの兄弟も、ここで育った親父の兄弟も、がっかりするかなって…。とりあえず何とか残していこうって決めました。ちょっとずつ前に進んで、若い人にも農業が魅力あるって思ってもらえればいいかな」

男性以外にも、山木屋地区では、トルコギキョウやアンスリウムなどの花を育てる若手農家が複数います。また、若手農家6人が農業法人を設立し、飼料作物も栽培しています。

こうした動きに合わせ、地区に戻った人を支えようと診療所も再開しました。町の中心部の病院から、医師と看護師の2人が派遣されています。週2回、診察が行われ、60代の女性医師は川俣町の出身です。戻った人の大半は孤独になりがちな高齢者で、話し相手になるのが重要だそうです。

4月14日放送「福島県 川俣町」

「町の人って、みんな助け合って生活しているじゃないですか。だから診療所の話をもらった時、断れないですよね。身近な生活の様子をお聞きしながら、考えていくのが診療所の役割かなと…。私は、東京で保健師さんが始めた"町の保健室"というのをイメージしながらやっているんですね。病気のことだけではなくて、日頃どんな生活をされているのか、まずはそこからお聞きするようにしています」

看護師の女性も、こう言いました。

「一人暮らしの方とか、いろんな問題を抱えていらっしゃるんですね。この間も、急に息子さんを亡くされた方に、先生がいろんなお話をして、私は四十九日を過ぎてメンタル的に心配だったけど、ダイレクトに聞けないので、その方の趣味が蘭を育てることなので、蘭の話をして…。人間は一人では生きていけませんので、会話をしながら、生活を感じながら、患者さんと一緒にやっていきたいと思います」

 

一方、山木屋地区には、故郷には戻らないと決めた人たちもいます。取材中、町の中心部にある山木屋小学校の仮校舎では、卒業式が行われました。5人の卒業生のうち唯一の女の子は、4歳で町の中心部に避難しました。去年5月、一家は町の中心部に家を新築したそうです。父親はこう言いました。

「僕自身は、ある程度、年になったら戻りたい…でも、実際に子どもを学ばせるとなると、どうしても人数が少ないんですよね。女の子も1人だけ。親としては同級生は多いほうがいいし、女の子の友達を増やしてほしいし、そういう環境で学ばせたいという思いで、戻らないと決めました。沈みがちの時もあったんですけど、子どもにはそういう姿を見せたくないから、つらい時でも笑顔でいようって…」

山木屋小・中学校は、この春から7年ぶりに地元に戻って授業を行っています。しかし取材した5人の卒業生は、全員、町の中心部の中学校に進学しました。いま在校生は、小学校が6年生5人だけ、中学校は2、3年生10人だけです。新たな小中学校はスタートと同時に、数年で休校になりかねないのが現実です。さらに町全体で言えば、一部に避難指示が出たことの陰も無視できません。同じ町内でも数百メートル地区が違うだけで、賠償に大きな差が生まれ、避難せず住み続けてきた人もいます。この点も、町の難しさとして付け加えなければなりません。

 

さて今回も、以前取材した人を再び訪ねてきました。原発事故から1年後の山木屋地区では、電機部品の製造工場を訪ねました(居住は禁止だが、事業継続は許可されていた)。ここで出会った当時20代の男性は、自宅は工場の目の前ですが、住むことができず、避難先から30分かけて通っていました。

「できれば住み慣れた土地に戻れるようにしたいです。今は仮設暮らしですけど、時々、地元で暮らしてきた記憶が出てきて、恋しいなって思います。本当なら、ここで普通に暮らしていたんだなって…」

あれから6年…。30代となった男性は、今も同じ職場で働いていました。自宅を建て直し、去年4月、避難指示解除と同時に戻りました。今は両親と兄弟、家族5人で暮らしています。

「仮設住宅だと、寝付けなかった…戻ってきた時が、安心感が一番強かったですね。今は家に帰ってくると、親もいるし、みんながいるっていう感じ。やっぱり慣れているから、すぐなじみました。この後はできれば、若い人たちが戻ってきて、またみんなでいろんな行事をやれたらいいなって思います」

 

また、原発事故から1年後の川俣町中心部では、山木屋の電気設備会社が場所を移して再開していました。社長の男性は、山木屋で続く雑貨店の3代目で、自分の代で電気設備会社も起こしたそうです。

「生まれた所に帰りたいのは、人間、誰でも共通だと思うので…。自分だけなく、地域があって、お客さんがあって商売が成り立つので、今までやってこられたのは地域の人のおかげです。採算の見通しはないかもしれませんが、1人でも2人でも山木屋に残りたい人がいる限りは、事業を継続したいです」

あれから6年…。60代となった男性は、去年9月、山木屋地区の雑貨店を改装して、食堂をオープンさせました。

4月14日放送「福島県 川俣町」

電気設備会社も続け、おととしから山木屋で新たな工場も稼動しています。会社経営は息子に譲り、男性は夫婦で山木屋に住みながら、食堂に専念しています。

「戻ったのは、みんなお年寄りなんですね。隣と何百メートルと離れているし、孤独になると思うんですよね。だから"今日は誰かいるかな"って食堂に来て、いろんな話ができればいいし、地元に戻って来なくても、お墓参りとか遠くから来た人も、"食堂に誰かいるかな"って来て、いろいろ話して、懐かしい思いをしてもらえる…それで食堂を始めました。故郷に戻られた方も、いろんな事情で戻らない方も、あの人に会ってみたいとか、絶対にあると思うんですよね。ご先祖様もいるので、山木屋を忘れないで、どこか片隅に思ってもらえればと思います。ぜひ、山木屋に来ていただければと思います」

食堂は、屋号の前に「語らい処」という言葉がついています。山木屋で人が集まり、語らう場という意味です。自己資金も投入して食堂や工場をつくったのも、"山木屋で雇用を生むのが地域のため"という信念からです。戻らない人にも理解を示しつつ、山木屋の火を消さないことが今の生きがいなのです。

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