キャスター津田より

4月21日放送「福島県 富岡町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

4月16日、熊本地震の本震から、ちょうど2年となりました。関連の報道によれば、仮設住宅では、悲しみや不安で眠れない人も多く、収入の低い被災者が病院通いを控え、生活再建も難しい状況です。みなし仮設には支援が届きにくく、生活苦に悩まされる人がいます。悲しくなるほど東北の経験は生かされておらず、震災から間もない東北と全く同じ状況でした。熊本の方々は、自分達のことを一番分かってくれるのは、東北の人だと思っているはずです。そのことは忘れないでおきたいと思いました。

 

さて今回は、福島県富岡町(とみおかまち)です。人口は約1万4千で、全域に避難指示が出されましたが、去年4月に約8割のエリアで解除されました。

4月21日放送「福島県 富岡町」

それから1年、いま町内に住むのは人口の4%未満です。全長約2kmにわたる桜並木"夜ノ森地区の桜"が全国的に有名で、取材期間中、町では「さくらまつり」が開かれていました。原発事故後はまつりが休止となり、これまでは"復興の集い"と称して町民が集まり、バスの車窓から桜を眺めたり、隣町の体育館で食事会を開いてきました。今年、7年ぶりに「さくらまつり」の名前で復活し、すでに花の盛りは過ぎていましたが、全国の避難先から1200人が会場に足を運びました。帰還困難区域に自宅があるという女性に聞くと、娘が住む埼玉に避難し、すでに埼玉に家を新築したそうです。"皆さんと会えて本当に楽しいし、懐かしい"と言いました。

「向こうでは、自分が避難者と言ったことはないし、やっぱり仲間外れというか、敬遠されちゃうんですね。人前では全く普通にしています。お話しする人もいないし、いまだに眠れないです。朝3時過ぎまでいつも悩んでいて…。こういう所に来ると吹っきれるんで、皆さんそうだと思いますよ。向こうにお友達は誰もいないので、いまだに帰って来たいという気持ちはあるんですけど、(帰還困難区域で)住めないのでね。それは残念かなと思いますね。本当に自慢のできる、素晴らしい所だったので…」

以前、首都圏で取材した時は、避難者であることを隠すあまり、親戚が被災地のナンバーの車で来るのを心配するという話も聞きました。今回の赤裸々な声も、復興の意味を多くの人に問いかける声です。

 

次に、町内の災害公営住宅に向かいました。曲田(まがりた)地区には64戸が整備され、現在47世帯が暮らしています。

4月21日放送「福島県 富岡町」

去年5月、避難先のいわき市から戻ったという70代の女性は、家族3人で暮らしています。震災前は駅前で美容室をしていましたが、津波で被災した上、避難を余儀なくされました。いま町内には美容室がないため、自宅に知り合いを招き、ボランティアで髪を切っているそうです。

「帰ってきたのはやっぱり正解だね。自由じゃないけど、雰囲気が違うもんね。友達が遠くに行って、ほとんどが遠くに家を建てていなくなったから、それが一番寂しいね。7年だもん、仕方ないよね。よその町で世話になって、友達もできて、"帰らないで、ここにいたら?"って言われたけど、"ごめんね"って言って、帰って来たの。やっぱり富岡で生まれ育ったから、富岡にいるってことがいいのかもね」

 

その後、中心部を離れて山あいの岩井戸(いわいど)地区に行くと、作業をしていた60代の農家の男性に出会いました。避難指示の解除後、すぐ戻ってきたそうで、自宅は新築しました。男性の家は15代続く農家ですが、61軒あった地区も今は2軒だけです。

「精神的に非常に落ち着くから帰って来ているんだけど、なかなか帰町する人が伸びなくてね。我々は農業だけど、商業も含めて、少しでも震災前の姿が増えてくれれば…。だから野菜でも花でも、少しでも震災前に戻っていこうと、極力意識して植えているんですよ。平常時に戻っていこうと…。自然が豊かでね、魚をとったり、釣りもしたり、野山1km四方くらいは全て歩いて、山菜とか採って遊んだ思い出がたくさんなんですよ。この地に生まれ育ってよかったなと思うから、継承していきたいです」

さらに、取材中に立ち寄った喫茶店では、店主の50代の女性が話を聞かせてくれました。

4月21日放送「福島県 富岡町」

去年7月にオープンしたそうで、週末の夜はスナックとして営業しています。町内で夜間営業する飲食店の第1号だそうです。以前はいわき市で店を経営していましたが、富岡町出身のお客さんに、町内での出店を打診されたそうです。富岡町に自宅を移したいそうですが、なかなか貸家が見つからないと言いました。

「7年間、うちのお店にご飯を食べに来てくれた女性が、 "店を出すのを応援するから"って…。富岡町に住んでいた方が帰還する上で、私たちを"応援する"って背中を押してくださったので、その方の言葉がなかったら、知らない場所にはとても来られないですよ。経営的には全然です。やっていけないから、休んでいないんです、営業時間もひろげて…。人の役に立って自分の生活が成り立つのはそうそう無いことなので、ここで頑張りたいです。業者さんとかお客様から、"本当に応援してるよ"、"ありがとう"ってたくさん言葉をもらうので、それが励みになるから、楽しくやっているんだよね」

いま町は、ごく少数ではありますが、戻った方々を中心に少しずつ動き出しています。すでに町内には大手のスーパーとホームセンター、飲食店、ビジネスホテルがあります。診療所や2次救急を担う病院も完成し、今月は、町内で小中学校が再開しました。反面、その小中学校に通うのは17人で、数としては震災前の1%です。いま町に住む人も、実はその3割が、もともと町民ではない復興事業の関係者だと言われています。再開した介護施設も赤字で、受け入れを拡大したくても人材が集まりません。今の復興政策は、とにかく帰還者を増やすのが目的です。1年あまりでその評価を下すのは尚早ですが、それ以外の視点、新たな復興の妙案を求める声があるのも事実です。

 

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。

4月21日放送「福島県 富岡町」

震災から2年後、避難指示のため住むことができない富岡町では、建造物の強度や劣化を検査する会社を訪ねました。社員有志が一時的に戻り、掃除をしていました。事務所を茨城県に移し、震災から1か月後には再開したそうです。社長の男性は、

「一度しかない人生なので、悔いのない人生を送りたいと思います。この仕事を一生懸命、全力でやってみると…。富岡に必ず戻ってきて、一番最初にやれたらいいなと思います。皆を引っ張って、"あいつが行ったなら、俺も行こうか"という状況になればいいかなと思っております」

あれから5年…。還暦を過ぎた社長は、以前の言葉通り、故郷への思いとともに戻ってきました。事務所を新築し、いま引っ越しの最中だそうです。60人いた社員は、現在20人。あの時、掃除をしていた社員の多くも会社を辞めました。うつ状態になった社員も多く、道のりは平坦ではありませんでした。

「会社をやっていかなくちゃいけない、仕事を取らなくちゃいけない、事務所をつくらなくちゃいけない…1個1個、ずいぶんつまずきましたけど、なんとかここまで来られた感じです。黙っていても、どんどん仕事はあるという状況じゃないので、無我夢中で会社を継続したいと思っています。富岡でちゃんと仕事ができるように、みんなが生活できるようにしてあげたいという気持ちで、最後の力を振り絞って、頑張ってはいるんですけども…」

 

また、震災から3年半後の富岡町では、中心部にある金物店を訪ねました。この時点でも避難指示は解除されず、商店街は原発事故当時のままでした。店主の男性は、いわき市の借り上げ住宅から通いながら、業者向けに除染に使う道具などを販売していました。売り上げは震災前の3分の1になりました。

「私の商売は地元に根差した商売だから、コミュニティがなかったら物が売れない…それが一番困ったことだね。うちの親父は昭和26年に店を始めて、二代で終わりたくないから、70年でも80年でも、創業からの記録を延ばしたいよ、意地でも…」

あれから3年半…60代になった男性は、今もいわき市の借り上げ住宅から通って店を続けていました。

4月21日放送「福島県 富岡町」

「廃業…私は廃業するよ。続けたいけども、オリンピックが終わった時はもう、除染関係とか、公共事業とかの国の予算は削られるから。町の予算の公共事業だけでは、私たちの商売はやっていけないよ。道路とか、町の環境は良くなったけど、震災で建物が壊れた場所では、空地が目立ってきたね。空き地になった所に住んでいた人は、町の外に家を建てたのかなと、がっかりする面もありますよ。今のところは戻らないけど、いずれは富岡に戻ってくるつもりです。人が集まる町になってほしいね。町外からでも、若い人がたくさん住んでほしいね」

 

自分はもう商売を頑張れないけど、町は発展してほしい、あるいは、自分はもう戻ることはできないけど、町は発展してほしい…町を思う気持ちと現実との矛盾に苦しんでいる方々は、本当に大勢います。

▲ ページの先頭へ