未来への証言 「当事者」が伝えるラジオ

(初回放送日:2024年3月4日)
※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

女川町の木村太悦さんの証言です。
当時30歳だった木村さんは地震の直後、防災無線の切迫した呼びかけに危機感を抱き、避難を始めました。しかし、別の場所で働いていた父親は津波の犠牲に。
震災後は2016年まで運営された「おながわさいがいFM」でパーソナリティーを務め、地域と向き合い、地域の魅力を発信しました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

木村さん)その日はですね、夜勤の仕事を終えて家に戻って、日中は床についていました。布団の中にいて、もう本当に眠っていられないぐらいの大きな揺れで、大型の家具や家電も次々と倒れてくる状況だったので、とにかく揺れが収まるまでは倒れないように体で支えていたっていうような状況でしたね。そこからは母と2人で家の中の片づけをしていました。ただその際も、女川町内の防災無線がずーっとアナウンスをしていたんですけれども、最初はテンプレートを読んでいるような内容だったんですけれども、それが徐々にですね、鬼気迫るといいますか、原稿を読んでいるような防災無線の言い方じゃなくなってきたんですよね。とにかく必死さが伝わってくるような。「こんな所まで来るはずはないよな」と思っていたんですけれども、ただ母親に何かあってはまずいと思ったので、そこから母を連れて車のエンジンをかけた瞬間にですね、男性の声で「津波もう来た!」っていうそんな絶叫が聞こえてきたんですよね。ふだんはそんな水も流れていないような川なんですけれども、その下流の方から3メートル4メートルぐらいの高さの水が押し寄せて来ていたんですよね。「あ、本当に津波来たんだ」とその時思いました。で、そこからは無我夢中になって、もうとにかく坂を行ける所まで行かなければいけないと。私の車の5台から6台ぐらい後ろの車はもう波に飲まれていってしまいました。なので、おそらくあと数十秒遅ければっていう、本当にギリギリのタイミングでしたね。

深澤)お父様が震災でお亡くなりになられたということなんですが…。

木村さん)父も女川でタクシーの運転手として働いていまして、3月の末ですね、埼玉に住んでいる叔母から私の携帯の方に連絡がありまして「いま警察の方から連絡が来て、あなたのお父さんの遺体を発見したよという連絡があったよ」ということを聞かされて、翌日遺体が安置されているテントに確認しに行ったんですけれども、まあ間違いなく父親だったんですよね。直接の死因はも津波による溺死だったんですけれども、喉をかきむしるかのような表情で死んでいたんですよね。もう本当に息ができなくてっていうことなんでしょうけれども…。もう、あれは一生忘れられない、その表情でしたね。

深澤)投げ出してしまいたくなるようなこともたくさんあると思うんですけど、ラジオの災害FMという所に身を投じたというのはどういう思いがあったんでしょうか?

木村さん)いろんな方が、自衛隊の方も含めて、町の職員の方も含めて、忙しくあちこちを動き回っている中、何か少しでも自分が役に立てるようなことがあるのであればというところがラジオ局スタートのモチベーションになっていきました。実際に被災者自身が運営する災害放送局というところで、震災の被害を被った当事者だからこそ言える言葉、伝えられる思いっていうのが実際ありました。そこで本当に老若男女、様々な方にお話を伺いました。「あ、女川ってこういう部分があるんだ。こういう良い所があるんだ」っていうところを町民の方々へのお話を通じて私自身も初めて理解することができて、そこから女川に暮らす人、女川に暮らす子ども、そういった人々に何か自分のできるところで役に立てるところがあればいいなというのが私自身もターニングポイントに、この震災がなっていったのかなと思っています。