知っていますか? 12年前、東日本大震災の被災地で活躍した"黄色い自転車"の話

黄色いフレームに「震災復興支援品」と書かれた、ちょっと目を引くこの自転車。
12年前の2011年3月に発生した東日本大震災の直後、台湾の自転車メーカーから被災地に無償で贈られました。通常の生産ラインをストップしてまで急遽製造された約1000台の自転車は、津波によって車が流され、ガソリンの供給も不足していた被災地で、貴重な移動手段として活躍しました。

あれから12年。
自転車を“届けた”メーカーと“受け取った”被災地の人たち。それぞれの思いを取材しました。


“黄色い自転車”は、ゼロからのスタートを後押ししてくれた

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「(今は)乗らなくても、やっぱり、ありがたい自転車なので」

岩手県山田町に住む武藤嘉宜さんは、今も黄色い自転車を大切に保管しています。
町役場の職員をしている武藤さんは12年前のあの日、津波で家が流され、車や家財道具をすべて失いました。それでも避難先から毎日役場に通い、町のために働き続けました。そんな時、知り合いから譲ってもらったのが“黄色い自転車”でした。

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武藤嘉宜さん
「今この(役場までの)道のりを見ると、緩やかにですけど登り坂になっているので、歩いて通っていたらと思うと結構大変だったかなと。この自転車のおかげでスイスイ通えました」

少しずつでも前に進むために、黄色い自転車が力を貸してくれたといいます。

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武藤嘉宜さん
「全てを失うところからのスタート。この自転車がその第一歩でした。今は家も建て替えることができました。自転車も大切にしていきたいと思っています」

そう話す武藤さん、笑顔で自転車を見つめていました。

“黄色い自転車” 誕生秘話「通常の製造ラインはストップ!」

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台湾に本社がある自転車メーカー「ジャイアント」から贈られたこの自転車、実は被災地で使うことを考えて作られた「特別仕様」の自転車でした。震災直後から急遽製造を始め、地震発生から1ヶ月半ほどで、約1000台もの自転車を岩手、宮城、福島の被災地に届けました。

どうして、こんなことができたのでしょうか?

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「被災地のために、何かできないか?」
震災直後、神奈川県川崎市の日本本社でも停電が発生。仕事ができない状態に・・・社内は混乱を極めました。世界中から被災地にさまざまな支援が集まる中「自転車メーカーとして何かできないか?」日本本社のメンバーで集まり話し合いました。

ジャイアントジャパン・広報 渋井亮太郎さん
「震災から1週間ほど経ったころ、台湾本社の社長から『お金は負担するから被災地のために何かしたい』と連絡がありました。私たちは自社の工場で自転車を製造しているメーカーなので、新品のマウンテンバイクを届けられる。今はお金よりも使える物資にこそ価値があるのではないか?と考えました」


徹底した「被災地目線」で作られた、特別仕様の自転車

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自転車は、現地にボランティアに行った社員や東北出身の社員の話、震災報道から得た情報をもとに製造されました。
▽被災地の道路状況が悪い→タイヤはパンクしにくいものに。
▽水を汲みに行くにも徒歩で1時間かかる→物資を運ぶための荷台やライトも取り付け。
▽子どもから大人まで、さまざまな人が使う→乗りやすい小さめのフレームに。
そして、
▽被災地は今、信号や街灯もない→子どもたちが事故に巻き込まれないように、暗闇でも目立つ黄色に。

被災した人たちの役に立つことを徹底的に考えてデザインされた自転車は、通常のラインを止めて急ピッチで製造されました。

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こうして完成した自転車。社員が手分けをして岩手・宮城・福島3県にトラックで運び、自治体やNPOなどを通じて被災した人たちの手に渡りました。

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ジャイアントジャパン・広報担当 渋井亮太郎さん
「約1か月半というスピードで送ることができたのは、社員全員に当事者意識があったからだと思います」


黄色い自転車は、今も現役で活躍していた

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石巻市に住む長谷部雅隆さんと、長男の悠宇さん、次男の凌羽さん。
この家族のもとに“黄色い自転車”がやってきたのは5年ほど前。悠宇さんが高校に通うための自転車を探していたところ、友人から譲り受けました。

実は父親の雅隆さん、黄色い自転車の存在を震災当時から知っていました。

長谷部雅隆さん
「震災の後、仕事で沿岸に行くと黄色い自転車が色々な場所で走っていて『頑張っているな、カッコいいな』と思っていました。自分の家は被災しなかったので、当時はもらうべきものではないと思っていましたが、巡り巡って手元にやってきました」

黄色い自転車は、悠宇さんが通学で3年間乗った後、弟の凌羽さんに引き継がれました。

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“黄色い自転車”を通して語り継がれる震災

親子で震災の話をすることはほとんど無かったと話す雅隆さんですが、“黄色い自転車”がやって来たことをきっかけに、少しずつ話す機会が増えたと感じています。

長男・悠宇さん
「自転車がなかったら、震災の話をすることもなかっただろうと思います」
「物として形であるからすごく伝えやすい。もしも結婚して、子どもが生まれたら『こういうことがあったんだよ』と自転車を見ながら話をしたいです」

12年前に被災した人たちを助けた黄色い自転車は今も、震災の記憶を伝え続けていました。


◆取材:大津放送局 カメラマン 川口ゆずか(2020年入局)
「黄色い自転車」の存在を知り取材を進めると、贈られた約1,000台のうち、現存している物はとても少ないことが分かりました。しかし、出会った人々の話や車体に施されたさまざまな工夫をみると、震災を乗り越えようとした人々の強い思いを感じました。