【キャスター津田より】11月4日放送「福島県 楢葉町」

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今回は、福島県楢葉町(ならはまち)です。人口は6,500あまりで、原発事故後、国の指示で全住民が避難し、2015年に避難指示が解除されました。全町避難した7つの自治体のうち解除が最も早く、他の6つに比べて帰還も進んでおり、人口の66.7%が町内に居住しています(他は概ね10~30%台)。
震災後、町中心部では、100戸以上の災害公営住宅や分譲宅地、生活関連施設を集積した『笑(えみ)ふるタウンならは』というコンパクトシティーがつくられました。スーパー、ホームセンター、商店、飲食店など10店舗で構成する商業施設、多目的室や子どもスペースなどを揃えた町民の交流施設、県立診療所(内科・整形外科)、町唯一の調剤薬局、郵便局等々、全て1カ所に集約されました。道の駅では日帰り温泉や物産館も再開し、楢葉町歴史資料館も12年ぶりに再開しました。アリーナや屋内プール、フィットネスルームなどを備えたスポーツ施設も新たに誕生しています。
また農業では、コメに加え、2017年から町を挙げてサツマイモ栽培に力を入れています。全国展開する菓子メーカーが旗振り役となり、地元農家の生産部会も発足して栽培は約57haまで拡大しました。育苗施設や国内最大規模の貯蔵施設、干し芋などの加工を行う『特産品開発センター』も整備されました。
さらに町は、若者の移住を施策の柱にしていて、移住相談窓口と交流ラウンジを備えた施設をつくり、お試しで移住したい人のために、廃業した旅館を町が改修して、まかない付きのシェアハウスも整備しました。移住者と住民の交流活動に使うため、キッチンなども揃えた地域活動施設もつくられました。


 はじめに、木戸川(きどがわ)に行き、風物詩の秋サケ漁を見せてもらいました。1995年、木戸川は10万匹の水揚げで“漁獲量本州一”を記録。全国有数のサケの川として知られましたが、全町避難で稚魚の放流が4年間中断され、戻ってくるサケが激減しました。その結果、採卵数も減少し、ふ化した稚魚の放流がさらに減るという悪循環が続いています。避難指示解除後、獲れたサケの数は5ケタから4ケタ、3ケタへと減り、去年は事故前の約100分の1の423匹でした。今年は猛暑という要因も加わったためか、11月2日現在で18匹です。県外産の卵も購入して、今年は351万匹を放流するそうで、木戸川漁協の漁労長、渡邉忠男(わたなべ・ただお)さん(80)はこう言いました。

 「話になりませんね。あの事故がなかったら、ここまで落ちなかったと思いますね。漁師さんの顔を見たら分かるけど、何となく活気がないでしょう。元の木戸川に戻ってほしいです。町も活気づくし、俺の一番の望みかな。80歳でこの先そんなに漁もできないから、いい夢を見て終わりたいです」


 次に、障がいがある人の作業所『ふたばの里』を訪ねました。古紙回収やバッグ・ストラップなどの日常雑貨を製作しており、働く場を求めて 31人が通っています。19年前、障がい者の居場所としてここを開設した早川千枝子(はやかわ・ちえこ)さん(80)は、避難指示の解除後、すぐに避難先のいわき市から戻って、施設を再開しました。施設では裁縫の先生として慕われています。

 「来たいという利用者がいるのに、どこにも出られないで、家で引きこもりになるのではかわいそうだから、遊びに来るだけでもいいからと、電気をつけて待っていたんです。すると前にここを利用していた人が、“たまたま通ったら電気がついていたから、やっているのかと思って来てみました”と顔を出してくれたりして、開けてよかったなあと思いました。特に精神障がいがある人は、避難で環境が変わって、周りの人たちの顔が違うということを受け入れられないケースも多いので、病気が悪化したりして、私がここに帰ってきた段階で12人くらい亡くなっていたんです。みんな、ここにいられれば、そのまま元気な姿でいられたのにね…」

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『ふたばの里』の他にも、避難指示解除の2か月後に高齢者のデイサービスセンターが再開し、5か月後には県立診療所が始まり、半年後には特別養護老人ホームが再開しました。障害のある方や病気のある方の中には、かかりつけの医師や通っている施設など、慣れ親しんだ生活環境を変えると、一気に危機に陥る人が多くいます。避難生活は、そうした命綱ともいうべき環境を全て奪ったのです。
 

その後、郊外にある大谷(おおや)地区に行き、300年の歴史がある地元の伝統芸能『大谷じゃんがら念仏踊り』の練習におじゃましました。避難のため踊り手が各地に離散しながらも活動を続け、今年は大谷生まれの高校1年生、菅野愛羅(かんの・あいら)さん(16)が新たに保存会に加わりました。菅野さんの母も踊り手で、一家はいわき市の仮設住宅で9年間暮らし、その後、市内に自宅を構えました。全町避難後、町の小学校はいわき市の仮設校舎に移転し、菅野さんもそこに入学しましたが、4年生の時に小中学校とこども園は楢葉町へ戻りました。それでも1人でいわき市から電車通学したそうです。

 「“じゃんがら”って、古いイメージがあるじゃないですか。でも、太鼓をたたいたら意外とできる、楽しい、みたいな…。学校は、どうしても楢葉の学校に行きたかったです。幼稚園からずっと一緒の子もいて、その子も楢葉の学校に行くって言ったから、電車通学で頑張りました。“じゃんがら”には高齢者もいるじゃないですか。普段そういう方とあんまり関わる機会がないから、高齢者と関わることもいいなって思います。自分が知らないことまで知れるし、人と関わることは大切だと思います」

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 さらに、11年前に取材した、遠藤政一(えんどう・まさいち)さん(75)と、友人の坂本房男(さかもと・みさお)さん(76)を再び訪ねてみました。当時、楢葉町は日中のみ立ち入りが許可されていて、2人はそれぞれ避難先から一時帰宅していました。ガソリンスタンドで給油中、偶然にも友人の2人が再会した場面に、私も居合わせたのです。坂本さんは知人に会えるかもしれないと、町に戻った際は1日3回ガソリンスタンドに行っていました。当時2人は、ひたすら“早く帰りたい”と繰り返していました。
 あれから11年…。遠藤さんは郡山(こおりやま)市やいわき市で暮らした後、避難指示解除と同時に夫婦で帰還しました。坂本さんもいわき市の仮設住宅から、解除と同時に夫婦で帰還しました。2人とも長引く避難生活で大病を患い、入退院を繰り返したそうです。帰還の時点で町に医療機関はありませんでしたが、2人はためらわず町に戻りました。遠藤さんはこう言いました。

 「脳梗塞をおこしちゃって、入院しちゃった…ストレスだね。解除の後は、もう、いの一番に帰ってきましたよ。今の暮らしは、私らの場合は避難する前の生活じゃないかな。特別、不便さも感じないし。」
また、坂本さんはこう言いました。

 「仮設にいる時に肺炎をおこして病院に行ったら、肺炎も悪いけど、心臓が悪いって言われて急きょ入院して…。政一さんは3回くらいだけど、俺は10回くらい入退院を繰り返したね。やっぱり人間には、生まれ故郷に帰りたい、そういうのが本能としてあるんじゃないのかな。庭に置いた椅子に座って空を見ると、ああ、生まれたときの空だなって思うよ」

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私はこれまで、全国各地の方々から、“除染したとはいえ、どうして被災地の人は放射性物質が舞い降りた町に、また戻りたいと言うんですか?”とか、“どうして被災地の人は、津波をかぶった危険な場所に、また住みたいと言うんですか?”と、何度も聞かれて説明に苦労してきました。本人の好むと好まざるとに関わらず、生まれ育った場所は、その人の“人格の一部”になります。『戻るのは理屈ではなくて、“本能”だから』という答えが一番的確なのかもしれません。
 

最後に、8年前に取材した、永山直幸(ながやま・なおゆき)さん(81)、セツ子さん(78)の夫婦を再び訪ねました。原発事故後、2人は直幸さんの弟がいる埼玉に避難し、そのまま避難先で家を借りて暮らしていました。8年前の取材は避難指示解除の直前で、一時帰宅中の2人はこう言いました。

 「みんなと会話して、笑ったりしていたから、またそういうのを求めたいです。埼玉から来てみんなとお会いすると、“うわー来た!”なんて言われてハグしてみたり…。埼玉は遠いですよ、3時間以上かかる。こっちに来て住みたいと思うよ。あっちにはいられないもの」

 その後、自宅のリフォームを待ち、2人は避難指示解除の翌年に町に戻りました。一緒に避難した直幸さんの両親は、埼玉県で亡くなったそうです。以前は3世代家族でしたが、子や孫は避難先に定住し、帰還したのは夫婦だけです。セツ子さんはこう言いました。

 「親の葬儀を自宅から出してあげたかった…だけど、しょうがない。それが心残りで、ずっと思っていたんだけどね。とにかく家へ戻れたっていうことが、一番大きいです。みんなに会いたくて電話して、“帰ってきたよ”って言ったら、“せっちゃん、カラオケやりましょう。待ってたよ”なんて言われて、うれしくなってね。戻って、今は最高の幸せです。これからもいっぱいいっぱい幸せになります」

2人は8年前より確実に年を取っていますが、笑顔は以前よりはるかに若々しく見えました。


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