未来への証言 野球ができる喜びを感じて

今回は、宮城県石巻市の前田直樹さんです。
震災当時、前田さんは32歳。社会人野球・日本製紙石巻で活躍する外野手でした。
前田さんが勤務していた海のすぐそばの工場は、津波で大きな被害を受けました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

小野)あの日地震が起きたときですね、前田さんはどちらにいらっしゃったんでしょうか。
前田)東京の方で野球の試合をしておりました。八王子の宿舎の戻った際に、揺れを感じました。
今まで感じたことのないような揺れでしたので、津波が押し寄せるところに、逃げてる車が走っていたりとか、実際テレビを見てがく然としたことを覚えています。 

小野)その後前田さんはどうされたんですか。
前田)希望して3月14日に戻らせて頂きました。

小野)まず石巻に入って被害をだんだんだんだん目の当たりにするような感じだったかと思うんですけど。
前田)今まで10年近く住んでいた町とは全く違う街になってましたので、工場も壊滅的な被害で、いろんなものが工場に流れこんでいるのが目に見えましたので、バスに乗ってる人間も言葉を出せない状況でほんとに戻ってきたという感じでした。
弊社の製品である紙の巻き取りとかが散乱しておりましたし、あとはもう家屋も工場の方に流れ込んできておりまして、家が工場の中に入ってるっていう状況もありました。

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小野)前田さんはそこからどんな風に活動というか行動されていったんですか。
前田)がれきを処理するためのスコップでしたり、一輪車とかそういうのを何とか手配できるように、遠方にも向かったりして、がれき処理もありますし、あとは同じ職場の方でも被災された方もおりましたので、そういう方の家にも向かって、泥かきをしたりとかっていうことをずっとやっていた記憶があります。
4月いっぱいくらいそういう業務をさせて頂いておりました。 

小野)野球部をどうしようかというような議論は会社の中ではどんな風にされてたんですか。
前田)野球部も復興、一緒につぶさないという話を頂いたので、その時はほんとに言葉にならない、意気に感じる思いもあったんですけども、逆に今野球をやっていていいのかなっていう個人としては思いもあって、複雑な心境だったことはちょっと覚えてます。
当時状況がすさまじかったので、野球の話をするべきではないのかなっていうことで、選手間でも、なかなかそういう話は正直できなかったです。
みんな言葉にできずにちょっともんもんとした日々は過ごしたかなと思います。
2か月近く野球から離れた中で再開したときには複雑な思いはやっぱりあった中で野球ができる喜びを改めて感じたっていうことは覚えてます。
いろいろな思いはあるんですけど、やっぱり我々ができることは野球なので、その野球でいかに皆さんに元気、歓喜を与えることができるか、というところ、そこに集中することが大事なんだということを改めてそこは感じました。
応援してるよっていう声をかけて頂くことが震災以降ほんとうに増えたので、やっぱりこの町のためにもがんばらなきゃいけないなっていう思いは年々ほんと強くなってる所はあります。

小野)震災って大変なことがあって、そういった経験というのは、今振り返ってみてどんな時間だった、どんなものだったですか。
前田)当たり前が当たり前じゃないってことを気づかせてくれたそういう出来事でもあったので、今まで幸せと感じてなかったことが、幸せに感じられたり、もちろん野球する、できるっていうことも幸せですし、しっかり生きなきゃいけないなっていう思いは強くさせられる出来事ではありました。
生きたくても明日生きたくても生きられなかった人がたくさんいると思うので、生きられた我々はしっかり、人の分もじゃないですけど、まっとうに生きていかなきゃなっていう思いは常にもって生活してます。

小野)それは野球をする上での意識もこういうものが当たり前じゃないんだというか。
前田)震災当日私はもう野球ができなくなると思ってたので、これで私の野球人生も、引退、終わる、終わったのかな、終わるべきなんだろうなって思った中で続けさせて頂いたので、そこで改めて野球ができる喜びを感じましたので、その幸せな気持ちはしっかりもって、プレーすることが大事なのかなっていう風には思ってます。