皇陛下「国民に感謝」
天皇として最後の会見

天皇陛下は、23日、85歳の誕生日を迎え、これを前に皇居・宮殿で記者会見に臨まれました。来年4月の退位を前に、天皇として最後となる会見で、これまでの歩みを振り返りつつ今の心境を述べられました。

(宮内記者会代表質問)
天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え、皇室は新たな世代が担っていくこととなります。現在のご心境とともに、いま国民に伝えたいことをお聞かせ下さい。

(天皇陛下)
この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。

新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。

ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。

天皇の望ましい在り方を求める日々

今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。

第二次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。

しかし、その後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。

戦後の道のり

以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。

終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。

それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。

昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。

そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

平成に起きた災害

次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。

ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。

障害を抱える人に

障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。

障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。

海外と日本

今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。

そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。

日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。

また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。

皇后陛下

明年4月に結婚60年を迎えます。

結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。

天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。

そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。

今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。

(会見は以上)

声を震わせ思いを語る

今回の記者会見は、天皇陛下の思いがこれまでにないほど強く表れたものとなりました。天皇陛下は誕生日を前にした今月20日、皇居・宮殿の一室で会見に臨まれました。

記者の代表から退位を前にした心境や、国民に伝えたいことを尋ねられた天皇陛下。象徴の務めとして大切にしてきた事柄を1つずつ取り上げ、話題が沖縄の苦難の歴史や先の大戦による犠牲者に及ぶと、声を震わせながら思いを語られました。

天皇陛下は、戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民の努力によって築かれてきたことを正しく伝えていくことが大切だとする部分では、「正しく」ということばを強く述べられました。

会見の終盤、国民への感謝や、ともに歩んできた皇后さまをねぎらう気持ちを語る時には、込み上げる思いにひときわ声を震わせられました。

これについて、両陛下の側近の1人は「その時々のさまざまな出来事が脳裏に去来し、感じ取られたものを踏まえて、心を込めてお気持ちを話されたのだと思う。国民に伝えるべきことを余すことなく伝えられた会見だったと思う」と話しています。

歩み

昭和天皇の長男で、皇太子として生まれた天皇陛下は、戦争が続く中で子どもの時期を過ごし、11歳で終戦を迎えられました。

戦後の復興期に青春時代を送り、大学生活を終えた翌年、軽井沢のテニスコートで皇后・美智子さまと出会い、25歳で結婚されました。一般の家庭からお妃が選ばれたのは初めてで、祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど、多くの国民から祝福を受けられました。皇后さまと国内外で公務に励むとともに、3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。

昭和天皇の崩御に伴い、55歳で、今の憲法のもと、初めて「象徴天皇」として即位されました。

天皇陛下は、翌年の記者会見で「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴として現代にふさわしく天皇の務めを果たしていきたいと思っています」と述べられました。

天皇陛下は、皇后さまとともに一貫して戦争の歴史と向き合われてきました。戦後50年を迎えた平成7年には、「慰霊の旅」に出かけ、被爆地広島と長崎、そして沖縄を訪ねられました。先の大戦で激しい地上戦が行われ20万人以上が犠牲になった沖縄への訪問は、合わせて11回に及びます。

戦後60年には、太平洋の激戦地サイパンを訪問されました。天皇陛下の強い希望で実現した異例の外国訪問でした。そして戦後70年には、悲願だったパラオのペリリュー島での慰霊も果たされました。

天皇陛下は毎年、8月15日の終戦の日に「全国戦没者追悼式」に臨み、戦争が再び繰り返されないよう願うおことばを述べられてきました。

天皇陛下は、また、皇后さまとともに全国各地の福祉施設を訪れるなどして、社会で弱い立場にある人たちを思いやられてきました。障害者スポーツにも強い関心を持ち、「全国身体障害者スポーツ大会」が開かれるきっかけを作るとともに、平成に入って皇太子ご夫妻に引き継ぐまで、大会に足を運んで選手らを励まされました。

大きな災害が相次いだ平成の時代。両陛下は被災地に心を寄せ続けられました。始まりは平成3年。雲仙普賢岳の噴火災害で43人が犠牲になった長崎県島原市を訪れ、体育館でひざをついて被災者にことばをかけられました。

その後も、平成7年の阪神・淡路大震災など大きな災害が起きるたび現地に出向き、被災した人たちを見舞われてきました。

東日本大震災では、天皇陛下が異例のビデオメッセージで国民に語りかけられるとともに、7週連続で東北3県などを回り、その後も折に触れて被災地を訪ねられました。

国民に寄り添い、世界の平和と人々の幸せを願われてきた天皇陛下。来年4月の退位が決まったあとも、「象徴」としての務めを果たし続けられています。

世界地図をご覧になる映像公開

天皇陛下の誕生日に合わせて、天皇皇后両陛下がお住まいの御所で世界地図をご覧になる映像が公開されました。

この世界地図は、両陛下がこれまで訪れた場所にピンで目印をつけているもので、皇太子夫妻として訪れた都市には青色のピンが、天皇皇后として訪問された都市には赤色のピンが、天皇陛下が皇太子として1人で訪問された都市には緑色のピンが立てられています。

天皇陛下は、これまでに58か国を訪れて国際親善などに努められてきました。