死ななければ、帰れないのか

「たとえ長い年月を要するとしても、将来的にすべての避難指示を解除する」
東京電力福島第一原子力発電所の事故で「帰還困難区域」になった場所について、国が掲げている言葉だ。
しかしその「長い年月」とは何年なのだ。生きている間に、戻れる可能性はあるのか。
事故発生から10年、避難指示の対象者は今なお2万人超。将来に希望を抱けず、取り残されている人もいる。
私は、大臣たちに問いただした。
(立石顕)

最初は遠くの出来事だった

あのころ、20歳で東京の大学1年生だった私は、浪人生活でなまった体を解き放つべく、剣道部で竹刀を振る日々を過ごしていた。

2011年3月11日 午後2時46分。
剣道部の合宿で静岡県に向かうバスの中、みんなのスマホに一斉に速報が入った。

どうやら東北で巨大な地震があったようだ。バスの中では全く揺れは感じなかった。もちろん、周囲に被害があろうはずもない。ただ東北の出身の先輩が、家族の無事を案じていた。なんとなく、落ち着かなかった。

宿に着くと、誰かが真っ先にテレビをつけた。最初に目に飛び込んだのは、千葉のコンビナート火災。それから、巨大な津波だった。

あまりのことに愕然とはしたが、やはり「遠い災害」だった。合宿そのものは予定通り行われ、本当に災害があったことを実感したのは、3日ほどたって、東京に戻ったあとだった。

街の景色は一変していた。
節電が呼びかけられ、渋谷のスクランブル交差点は真っ暗だった。大学はちょうど春休みだったが、部活の練習は取りやめになり、横浜の実家で過ごすしかなかった。

東北でとんでもないことが起きている。恐れおののきはしたが、どこか現実感はなかった。

私は何も知らなかったんだ

それから3年、時間がたてば被災地も癒やされる、というわけにはいかなかった。原発事故のためだ。自分の理解の範疇を超える事態が進んでいた。

でも分からないからこそ、自分の目で確かめたいと思い、それができる記者という仕事を志望した。

2014年4月、NHKに入局。当時は、福島をはじめ被災地への赴任を希望する同期も多かった。
「原発の専門知識があります」
「両親が東北出身で」
「被災地で取材するために記者になりました」
何も分かっていない自分が行っても、何ができるわけではないか…。まずは記者としての修行をしてからだと考え、みずから赴任を希望することはなかった。

最初に赴任を命じられたのは、山梨県の甲府放送局。そこで3年余り基本をたたき込まれたあと、2017年の夏に福島局への異動が決まった。配属先は、いわき支局だ。

いわき支局の担当範囲の中で、私は富岡町、双葉町、楢葉町、広野町という、原発事故で特に大きな影響を受けた自治体の担当となった。映像で見た、大きく壊れた原発の建屋の映像が脳裏をよぎった。

いよいよあの場所に行けるのか。まずは、周辺の地図を広げた。どこに避難指示が出ていて、どのあたりが線量が高いのか。除染はどこまで進んでいるのか。知れば知るほど、自分は何も分かっていない、ということを思い知らされる。

でも地図だけでは、本当のことは分からない。とにかく、自分の足で現場を回って、見て、確かめることだ。

あのバリケードの先に

いわき支局に赴任して、最初のころ足繁く通っていたのは、楢葉町だった。

楢葉町では避難指示が解除され、復興への取り組みが進み始めていた。人口も、徐々にではあるが戻りつつあった。その歩みを記録し、報じることは重要だと感じていた。

その一方で、気がかりなことがあった。自分の足で回るようになっても、やはり地図を眺めるしかない場所があった。それが「帰還困難区域」だ。事故の発生から6年半。避難指示が継続し、原則として立ち入りが制限されている地域だった。

繰り返し周辺でネタを探して回る「ロービング取材」をした。有名な桜並木がある、バリケードの前も何度も通った。あの先には何があるのか。国は「たとえ長い年月を要するとしても、将来的にすべての避難指示を解除する」という方針を掲げている。しかし、その道筋は見えていない。あのバリケードの先のことをこそ、取材しなければ。その思いが強くなっていった。

取材先を探した。コンタクトできたのが、福島第一原発から南に約10キロ離れた富岡町小良ヶ浜地区の区長、佐藤光清さんだった。海に面した小良ヶ浜地区は、町の中心部より北側の、より原発に近い場所にある。光清さんは、すでに楢葉町をはさんでさらに南のいわき市に自宅を再建し、家族三世代で移住していた。

光清さんの案内で、許可を得て一時的に富岡町の帰還困難区域に入れることになった。

線量計を携え、光清さんの運転する車の助手席に座る。通行証を見せ、バリケードのその先に入っていった。

バリケードの先で、まず目に入ったもの。それは、おびただしい量の除染で出た土の山だった。避難指示が解除された、別の地域から運び込まれたものだ。それがこの地域の位置づけを、表しているかのようだった。

最初は淡々とした様子だった光清さん、その表情が曇ったのは、自宅にたどり着いた時だった。イノシシなどに荒らされ、人の背丈を超えるほどの雑草が生い茂っていた。

「戻れる保証は何もない。来るたびに、家が傷んでいく。それが切ない」

区長という立場から、たびたび住民集会を開いていた。共同墓地など、町に残る共有物をどう管理していくのか。課題は山積していたが、集会に参加する人も年々減っているという。

あそこへ行こう、と光清さんが向かったのは、灯台がある高台だった。

そこで車を降り、指さす方を見た。

原発の全容が、見えた。
「事故を起こしておいて、このままほったらかしにされるのか」

今なお「23区の半分超」が

原発事故に伴う避難指示は、除染の進ちょくによって、徐々に解除されてきた。

赴任した2017年当時は、比較的線量が低い「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」が一部残っていたが、これまでにすべて解除されている。ただ2021年3月現在もなお、7つの市町村に「帰還困難区域」が残る。その面積は337平方キロメートルと、東京23区の面積の半分を超えている。そして光清さんと同じように、2万2000人もの人が、避難指示の対象となっているのだ。

私が福島で取材を始めた2017年、「帰還困難区域」をどうするかという議論が本格化した。

5月には、「帰還困難区域」に、住民などが居住できる拠点となる「特定復興再生拠点区域」を整備することが盛り込まれた、改正福島復興再生特別措置法が成立した。

これによって、「復興拠点」として国から認定されれば、5年後には、避難指示が解除される可能性が出てきた。「復興拠点」は、自治体が申請を出して国が認定する仕組みで、認められれば集中的な除染やインフラの整備をしてもらえる。富岡町は「帰還困難区域」のすべてを「復興拠点」に認定してもらおうと考えた。

死なないと帰れないのか

しかし国は、「場所を選ぶよう」求めてきた。

「復興拠点」として認定するのは、駅や市街地など地域の中心的な場所になるという。つまり、「帰還困難区域」のうち、「復興拠点」として5年後をめどに解除できる場所と、相変わらず見通しが立たない場所の2つに分かれることになるのだ。

光清さんの住んでいた小良ヶ浜地区は、駅や市街地から遠く、人口も少ない。「復興拠点」から外れることが決まった。町にとっても苦渋の決断だった。

光清さんとともに入域した時、共同墓地を見てあることに気付き、尋ねた。
「避難して亡くなった人たちって、ここに埋葬されるんですか」
「いるよ。亡くなって、町に戻ってきたんだ」

避難先で、帰還できるとも、できないとも示されないまま、希望を失っていく。
そして亡くなってはじめて、町の中に戻る。なんということだろう。

佐藤健治さんもその一人だ。
2019年5月に、避難先のいわき市で亡くなった。75歳だった。

左官職人や建設作業員として働いていた健治さん。みずから建てた自慢の家で、孫の面倒を見たり、農作業をしたりするのが生きがいだったという。
「おら、やっぱ、うちに戻りてえな。でも、戻れねえもんな」
ふだん弱音を吐くことのない健治さんが、入院中にこぼした言葉だと、息子の忠一さんが教えてくれた。

「これだけの時間が流れて、方向性も示されない。宙ぶらりんの状態が本当にもどかしい。政府には、はっきり方針を示してほしい」と、忠一さんは憤った。

健治さんのように、後に「帰還困難区域」となった場所で暮らしていて、避難先で亡くなるケースがどのくらいあるのか、自治体を通じて調べてみた。9年半近くで、ほぼ1割にあたる2670人が亡くなっていた。

何年後に帰れるという希望さえ持てず、亡くなっていったのだ。人によっては、帰還は無理だと言われて新しい人生に向けて歩んでいったほうが、よほどよかったかも知れない。

現在、「復興拠点」の面積は、「帰還困難区域」の8%にとどまっている。
残りの92%は、解除の見通しが立っていない。

どうするつもりなのだ。これこそが、自分が向き合うべき課題だと思った。

行政に問うチャンスが

国に問うチャンスは訪れた。2020年の夏、東京の政治部に配属されたのだ。

総理大臣の一挙手一投足を追う、いわゆる「総理番」を務める一方で、復興庁も担当することになった。
願ってもない好機だ。

東日本大震災と原発事故の発生から10年となるのを前に、クローズアップ現代+のためのインタビューを撮ることになった。相手は総務省の官僚だった岡本全勝さんだ。

発災直後から、被災者支援、復旧・復興に携わり、復興庁の事務次官を務めた。退官後も、内閣官房参与や福島復興再生総局事務局長を歴任。いわば“復興行政の生き字引”だ。番組の主題は「復興予算」だったが、それに必要なインタビューとは別に、私はやはり「帰還困難区域」のことを尋ねたかった。

避難指示解除の見通しを示すことは、必要だったのではないか。
私がそうただすと、岡本さんはまずは背景を説明した。

「『帰還困難区域』は、政府が戻れないと線引きをし、東京電力による賠償金は、戻れないことを前提に支払われた。土地や建物、財物は、全額賠償という形で、故郷を失うことについての賠償のはずだった。ただ、意外に放射線の減衰が早かった」

原子力規制庁によると、福島第一原発から80キロ圏内の放射線量は、2011年8月の時点では、5年間で、およそ5割減少すると推定されていた。それが、2016年10月の時点で、5年前と比べ71%減と、予想を上回るスピードで下がっていた。

「当初想定していた放射線量の減衰、これは自然による減衰なのだが、実際には早かった。『うれしい想定の外れ』で、早く帰ることができる地域が広がったのは本当によかった」

こうした状況を踏まえ、政府は地元や与党の要望も受けて、「帰還困難区域」でも、住民が居住できる環境を作ろうと、一部で除染を始めることにした。

これが、先に記した「特定復興再生拠点区域」=「復興拠点」だ。

誰が除染費用を負担するのか

しかし、新たな問題が生じた。
「除染費用を誰が負担するか」だ。

「東京電力は、戻らない前提で賠償を支払っている。東京電力や株主からすれば、いったん全額を支払ったのに、さらになぜ払うのかと。東京電力としては、たぶん、払う理屈はないんだと思う」

こうした事情から「復興拠点」の除染費用は国が負担することになった。岡本さんは国費を用いる以上、除染する対象となる「復興拠点」を決める際、費用対効果を考慮せざるをえないと話した。

「自治体と復興庁のアンケート調査では、原発に近い自治体では、帰還する意向を尋ねると、6割の人が戻らないと答えている。戻らないことを前提にしてきたので、ある意味で当然だ。除染をしても、使われる見込みがない土地ができるならば、税金を投入することにおそらく疑問が出る」

では、帰りたいという住民の意向はどうなるのか。
岡本さんに問うた。

「戻れるなら早く戻りたいという人がいるのも事実だが、役人は、費用対効果という言葉を口にせざるを得ない。それを超えて国費を投入するという政治決断は、選択肢のひとつとしてあると思う。しかし、それは役人が決められることではない

焦点は政治決断 では復興大臣に聞こう

ならば、政治の側はどう捉えているのか。
平沢復興大臣に聞こう。

「復興拠点」以外の避難指示解除について、具体的な方針が示されないことに焦りを感じる住民もいる。復興をどう進めていくべきと考えるか。
「政府として、いろいろと検討しているが、まだ申し上げる段階にはない。時間はかかるが、すべて避難指示を解除できるようにするということは、菅総理大臣が言っているとおりで、私たちも、そういった状況になるように、一日も早く避難指示が解除されるよう努めなければならない」

具体的な方針は検討中だということだ。しかし地元には、まさにその「検討中」という「宙ぶらりんの状態」を解消してほしいという思いがある。私はさらに質問し、詰めることにした。

「復興拠点」以外の扱いについて、一歩踏み出すためには、政治のリーダーシップが不可欠だ。1人の政治家として、この問題をどう捉えているのか。
「拠点外の問題については、今、政府内で検討しているところで、今後、自治体側から課題や要望などを丁寧に聞きながら、検討を加速化させていくということになると思う」

最終的にどうするかは、政治の側で決断すべきだと思うが、どうお考えか。
「検討を加速化するということは、要するに、検討を急ぐということだ」

検討の中には「復興拠点」以外の地域の除染に国費を投入する考えは入ってくるのか。
「拠点外の問題について、どういう形でやるかということは、いろいろな問題があるわけで、いずれにしても、検討していくということになる」

原発事故発生から10年という歳月がたった。だが、復興大臣から返ってくるのは、検討、検討、検討。手を変え品を変え問うても、具体的な見通しは示されなかった。

首相が繰り返す「必ず」

3月6日、私は、菅総理大臣の福島訪問に同行した。これはチャンスだ。

「帰還困難区域」を抱える大熊町と双葉町の町長からは、避難指示解除の見通しを早期に示してほしいと直接、訴えかけられた。

(大熊町・吉田淳町長)
「町にとって一番の課題は、『帰還困難区域』の今後についてです。国の責任ある解決を期待しています」
(菅首相)
「政府としては、『帰還困難区域』については、将来的に必ず解除する、そういう方針に私も全く変わっていません」

(双葉町・伊澤史朗町長)
「町の面積の80%以上が白地地区(=「復興拠点」以外の地域)です。国は、時間がかかろうとも、すべてで避難指示を解除するという考えを示されていますが」
(菅首相)
「それは私もしっかり継承しますから」

(双葉町・伊澤史朗町長)
「拠点外の皆さんも、一緒に避難指示解除をして、帰還するという強い思いがありますので、特段のご配慮をお願いします」

記者からの質問を受けることになり、福島放送局の記者が代表して尋ねた。

(記者)
「帰還困難区域」のうち、避難指示解除の見通しが立っていない地域については。
(菅首相)
「地元の皆さんから強い要請を受けており、政府としては、たとえ長い年月を経たとしても、将来的に『帰還困難区域』のすべてを解除する考え方に変わりはない

ここでも、「長い年月をかけても全て解除」がゴールとして示された。ただ、「長い年月」がどれほどなのか、やはり示されなかった。

「責任を果たしてほしい」

「帰還困難区域」を案内してくれた、佐藤光清さん。体調を崩して長期間入院し、いま自宅で療養生活を送っている。
「死ぬまでに生まれ育ったふるさとに、1回は帰って住みたいという人たちがいる。苦労して建てた家をイノシシに荒らされたままでは、いたたまれない。国策として、原子力政策を進めてきたことに対し、最後まで責任を果たしてほしい」

父親の健治さんを亡くした佐藤忠一さんは、テレビ電話で取材に応じてくれた。
「10年の間に、ほかの地域の避難指示が解除されていく様子を見て、当初はあきらめていた、帰還したいという気持ちが強まってきた。もし避難指示が解除されれば、母親と2人で戻って生活したい」

避難指示の解除はゴールではなく、あくまで復興のスタートラインに過ぎない。そのスタートラインへの道筋が、具体的に示されていないのが現状だ。

政府は、ことし4月からの「復興の基本方針」で、「帰還困難区域」について、「地元の意向や要望を丁寧に伺いながら検討を加速化する」とした。

「10年待たされて、あと何年待たせるんだ」
何度も耳にした被災者の言葉は、原発事故が時間を奪う災害だということを表している。それだけに具体的な時期を明示する必要性が、より高まっていると強く感じる。

わずか3年ではあるが、自分なりに福島の被災者と向き合ってきた思いを込めて、駆け出しの政治記者として、これだけは言いたい。

「政治には、できるだけ早く結論を出す責任がある」

政治部記者
立石 顕
2014年入局。甲府局を経て、福島局で3年勤務。20年夏に政治部へ。総理番のほか、復興庁などを担当。