1人で宮殿に入った私が
SPに目で訴えたわけ

「お願い、SPさん!」
ここはインドネシアの大統領宮殿。その日、たった1人で入っていった私は、大統領警護のSPに必死で目で訴え、心で叫んでいた。ああ、なんでこんなことに…。
(松﨑靖裕)

はじまりはどしゃ降りで

「総理を乗せた車列が高速を降りた」

ショートメールが届いた。車を追っていた現地クルーからの情報だ。

インドネシアの都市、ボゴール。その日、私はテレビカメラを構えて、大統領の宮殿前にいた。
菅総理大臣が就任後、初めての外国訪問をすることになり、日本から同行してきた記者団の中から、テレビ局代表で私が映像取材をすることになったのだ。

「ついに来る!」

たった1人での取材、決して失敗できない。そう思った瞬間、どしゃ降りの雨が。

こんな時に、スコールなんて。玄関前に並んでいた人たちが、あたふたと移動を始める。総理を迎えるために整えていたのであろう陣形が崩れ、車がどこに着くのか、分からなくなってしまった。

混乱する。まずい、どうしたらいい。

とその時、突然、後ろからスーツの裾を引っ張られた。

「OFFICIAL」と書かれた腕章をつけた現地の男、手にはスチールカメラを持っている。ああ、インドネシア政府公認のカメラマンだな。私に向かって大声で何かを叫びながら、手招きしている。「こっちへ来い」と言っているのは明らかだ。

重い機材を全部担ぎ、急いで彼の脇へ移動してカメラを構える。

出迎えの人たちがふたたび列を作り直した直後、激しい雨の向こうから、黒塗りの車列が現れた。

そのうちの1台が、宮殿玄関で停まる。よし…

いろんな意味で重い

私、松﨑は、「映放クラブ」に所属するカメラマンだ。記者クラブといっても衆議院の中にある映像記者による組織で、全社を合わせると70人ぐらいが所属している。

事件や事故の取材、それにドキュメンタリーの撮影などをしてきた私だが、政治家を追いかけることが主になるここには独特のルールがあって、ちょっとばかり勝手が違う。とはいえ、ことば、しぐさ、そういった微細なものまで撮り落とせないのは、どこだって同じだ。

9月に配属されたばかりの私に回ってきた大仕事が、今回の「総理の同行取材」だ。
インドネシア政府は感染対策を徹底し、大統領宮殿に日本から同行したペン記者が入ることを許さないことにした。つまり宮殿に入るのは、日本のテレビカメラマンとしては私1人になるのだ。これは失敗できない重い役目だ。

重い、といえばもう一つある。

ふだん、カメラマンは1人ではなく、「カメラクルー」と取材をしている。しかし今回は、撮影、照明、録音、映像伝送をすべて1人で行わなければならない。必要な機材はすべて、自分で携行しなければならないのだ。

右肩にカメラ、三脚はストラップで首からたすき掛け、大型のショルダーバッグにバッテリー、マイク、スタンド、音声ケーブルなどを詰め込み、背中のリュックには映像伝送装置…総重量は約30キロ。小学生を1人抱えながら走り回るようなものだ。

学生時代、野球で鍛えた体に自信はある。しかし気温約30度、湿度100%に近いボゴールで、スーツにネクタイ、マスク姿で、機材を抱えての取材は、さすがにきつい。

肩に、いや心にも、大きなプレッシャーがのしかかった。

ことばも通じない 動線が分からない

インドネシアの大統領宮殿があるボゴールは、自然豊かな観光地としても知られる。
真っ白な宮殿の玄関先でカメラを構えた私は、その瞬間を待っていた。

前夜はPCR検査を受けることを求められた。
ここで引っかかったらどうしようと、さすがに緊張したが、幸い陰性だった。

宮殿の周囲は、銃を抱えた衛兵、サングラスをかけたコワモテの大統領警護SP、宮殿職員とおぼしきネクタイ姿の男性など、インドネシアの人たちばかり。

ふだんなら、こういう時に最初にやるのは、動線のチェックだ。
総理が車を降りたあと、首脳たちがどんな動きをするのか。相手の動きを先読みしながら撮影をしていくカメラマンにとって、その情報は命綱といってもいほど重要だ。

しかし誰かに尋ねようにも、私のそばには、日本語はもちろん、英語を話す人もいなかった。
分かっていたのは、ここで首脳会談が行われ、その内容を両首脳が共同で発表する、ということだけだった。
なんてこった。

助けてカメラマン!

そして冒頭に書いたように、スコールに襲われるわけだが、政府公認カメラマン殿のおかげで助かった。

マスク姿の菅総理とジョコ大統領による、握手のない挨拶。
かろうじて撮影できた私の映像は、コロナ禍での歴史の記録として、残り続けるのだろうか…

そんな感慨にひたる間もなく、今度は腕をひっぱられた。例のカメラマンだ。

宮殿の奥へ入って行く総理と大統領を追いかけながら私の方を振り向く。「こっちへ来い」の合図だろう。

うっかりしていた。総理の後ろ姿をゆっくり撮っている場合ではない。首脳会談はいつ、どの部屋で行われるのか分からない。ふたりに密着していなければ、撮れないじゃないか。

撮影を許可されているとはいえ、不用意に近づけばSPが行く手を阻む。どこまで近づけるのかを、公認カメラマンは心得ていた。

宮殿内をゆっくり見て歩く総理と大統領。彼はふたりを追い越し、3メートルほど離れた場所に立ち止まって、写真を撮っている。なるほど、そこがポイントなんだね。

追いついた私は、彼の横でカメラを回す。宮殿での取材は、この繰り返しとなった。

しかし私もカメラマンだ。どこで撮るかは自分で決めたい。
何度か彼の先回りをして撮影を試みたが、SPに払いのけられたり、私が構えた場所と逆方向に両首脳が行ってしまったり…。

そんな私を見かねたのか、彼は撮影ポジションを変えるたびに私に合図を送り、移動した先でシャッターを切っては、私がついてきているか確認する。私は右目のファインダーで両首脳の動きを見ながら、左目で彼の動きを追うようになっていた。

そうやって、彼に誘われるようにして首脳会談が行われる部屋にたどり着き、無事、撮影することができた。

いま思えば、彼にとって私の存在は負担だっただろう。彼は私と同様、1人だった。彼にとっても、この仕事は失敗が許されないものだったに違いない。自分の撮影に集中したかったはずだ。

そんな状況でも彼は、文字通り、右も左も分からず1人で撮影している日本人の私に、注意を払ってくれていた。
「コロナ禍では、助け合わなければ生きていけない」
彼がそう教えてくれた気がする。

助けてSPさん!

首脳会談の撮影終了後、共同発表が行われる部屋に移動した私は、汗だくのまま次の準備に取りかかった。

そう、大統領と首相の共同発表の生中継を、1人でセットしなければならない。

いつ始まるか分からない。急がなければ。

ここで大事なのは、音声だ。急いでマイクを設置し、30メートルある音声ケーブルを伸ばして、離れた場所にあるカメラにつないだ。これで準備はOK…あれ?

ここで、私は大きな問題に気づいた。

「本日は晴天なり、ただいまマイクのテスト中」あの役目…
誰がマイクチェックをするんですかーー!

音声が届いていることを確認し、適正な音量で収録するためにカメラを調整しなければならないが、誰かがマイクに向かってしゃべってくれないことには、それができない。マイクは遠い。音声マンはいない。記者もいない。ああ、絶望的だ…。

その時、マイクのそばに立っているある人物と目が合った。SPだ。
「この人しかいない!」

私はとっさに、両手で拝むポーズをとった。
続いて、右手でマイクを指さし、今度はその手を自分の口の前ですばやくグーパー、グーパーする。
「お願いです、マイクの前でしゃべってください!」
と、心の声で叫んだ。

その男の声は、とても低かった。

大統領警護の訓練で鍛えたのか、筋骨隆々、風貌のイメージ通りの低く野太い声が、カメラの音声レベルメーターを振るわせた。

何を言っているのか分からないが、私はすばやくカメラを調整する。しゃべってくれたのは10秒ほど。撮影の準備を整えるには、十分な時間だった。助かった…口の前でグーパーは、世界共通語なのだろうか。

しかし、彼にとっての10秒はどんなものだっただろう。彼はマイクの左側、約3メートルのところに立っていた。そこで部屋の警備の任務を負っていた。彼は私を助けるために、10秒間、持ち場を離れてくれたということなのだろうか…。

元の場所に戻ったSPと目が合うと、私は両手を合わせ、深々と頭を下げた。
彼は何もなかったかのように、再び周囲に目を光らせていた。

コロナ禍の生き方を考えた

帰国後の検査でも陰性だったが、14日間の自主隔離期間となった。幸い、これまでのところ体調に変化はない。

まもなくその期間を終えて、仕事に復帰することになる。
いま無性に思うのは、どこかで何かに困っている人を見かけたら、自分にできることを少しでもしてあげたい、ということだ。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、たった1人とか、最小限の態勢で頑張っている人が、いまたくさんいると思う。こんな時代だからこそ、実にありきたりだが、「助け合う」ということを改めて意識したい。

そして、本当にこの時代がニューノーマルというなら、「1人で頑張れ」ではなく、「助け合う」がふつうになってほしい。そんな当たり前のはずのことを、改めて思い知らせてくれた取材だった。

映像センター カメラマン
松﨑 靖裕
2011年入局。名古屋局から報道局映像センター。ニュース取材、ドキュメンタリー番組の撮影を担当後、9月から映放クラブに所属。