号と政権 彼が見たのは

平成が終わり、令和が始まる。
その元号。戦後、法的な根拠が失われ、いわば「存続の危機」にさらされていた。
元号を法制化して、存続させることを決断したのが、時の総理大臣、福田赳夫。
秘書官として政権運営を支えていたのが、息子の福田康夫だ。
当時の舞台裏、そして平成という時代、さらに安倍政権についても聞いた。
(政治部・自民党担当 古垣弘人)

元号がなくなる!?

7世紀以降、1300年以上にわたって続いてきた「元号」。
しかし、戦後の日本国憲法施行にあわせて、旧皇室典範などが廃止されたことで、元号は法的な根拠を失い、いわば「存続の危機」にさらされていた歴史をご存じだろうか。

敗戦直後、「この際、本格的に西暦に移行すべきだ」などと、日本の伝統に対する懐疑的な意見も出ていた。そうした中、政府は、元号の根拠となる元号法の制定を目指したが、GHQ=連合国軍総司令部の反対に遭い、断念。

それでも、「昭和」は慣習として残っていたが、昭和天皇が年を重ねるにつれて、保守層を中心に、元号の法制化を求める意見が強まった。

昭和天皇が74歳を迎える昭和50年。
「このままでは、元号がなくなってしまう」
当時、内閣法制局第一部長だった角田礼次郎氏の国会答弁には、その危機感が端的に表れている。

「昭和という元号は、法律上の基礎はなく、事実としての慣習として、現在、用いられているという認識に立っている。陛下に万一のことがあれば、昭和という元号が、その瞬間をもって消える、言いかえれば、空白の時代が始まるということになる」

昭和53年には、元号の法制化を推進する国民会議が発足。
当時の政府の世論調査で、元号の存続を望む人は、およそ78%だった。

法律で存続を

そうした中、元号の法制化を決断したのが、時の総理大臣、福田赳夫氏だった。

当時の状況について、総理大臣秘書官として父親の政権運営を間近で支えていた、息子の康夫氏は、次のように振り返った。

「元号がうやむやになってしまう。そのことが天皇制そのものについても不確かなものにしてしまう可能性があるかもしれない。早く決めなければいけないと考え、福田赳夫内閣でもって、これを法制化しようと決めた」

父親の赳夫氏は、昭和天皇の外国訪問に同行したこともあり、特別な思いを寄せていたという。康夫氏は、そうしたことも、法制化の決断を後押ししたのではないかと指摘する。

「ヨーロッパの各国における天皇陛下に対する受け取り方が普通のものでないというものを肌身で感じ、天皇制が国際社会の中においても、とても大きな意味があると、福田自身としても(元号を存続させる)必要性というものを個人的に感じていた」

福田内閣が法制化の方針を決めた翌年。政権を引き継いだ大平正芳内閣は、元号を政令で定めることなどを盛り込んだ元号法案を国会に提出。当時の野党の一部は「憲法の主権在民の原則に逆行する」などと法案に反対したほか、法案に反対する市民集会が開かれるなど、国民的な議論が巻き起こった。

現在においても、元号は「象徴天皇制とはなじまない」「中国由来で『君主が空間だけでなく時間まで支配する』という思想に基づくもの。憲法の国民主権の原則になじまない」という意見がある。

昭和54年の国会は、元号をめぐって与野党が激しく対立。「元号国会」とも呼ばれた。政府は「元号は国民に使用を強制するものではない」として理解を求め、元号法は、自民党などの賛成で成立。

その後、竹下内閣のもとで発表された「平成」は、元号法が適用された初めての元号となり、新元号「令和」も、この法律に基づいて政令で定められた。

「天皇制そのものが言ってみれば、日本の1つの歴史の遺産、大事な遺産だというふうに思う。今後も大事にしていきたい。元号の制度というものが消えていたということが、むしろ異常な状態だ。天皇制があることと国民との接点が、元号だと思う」

「平成」に首相となって

「昭和」に父親をそばで支えた康夫氏もまた「平成」で総理大臣へと駆け上がった。
父親の秘書から衆議院議員に転身したのは、平成2年。

森内閣と小泉内閣で官房長官を務めたあと、平成19年に、父親と同じ71歳で総理大臣に就任した。親子2代続けての総理大臣就任は憲政史上、初めてだ。

福田氏が見た平成は、どのような時代だったのか。

第1次安倍内閣のあとを継いで発足した福田内閣。
直面したのは、衆参両院で多数派が異なる、いわゆるねじれ国会だった。
みずからの内閣を「背水の陣内閣」と名付けた福田氏。

所信表明演説では、ねじれ国会で、政策を実行していくには、野党の協力が欠かせないとして、当時の野党第1党の民主党などと誠意を持って話し合う姿勢を強調した。

そして、当時の民主党代表だった小沢一郎氏に、いわゆる大連立を打診。

しかし、民主党内の反発を受けて、結局、頓挫。
平成20年9月、福田内閣は、ねじれ国会の行き詰まりを打開する手立てが見つからないまま、1年足らずで総辞職した。

その後、麻生内閣から民主党政権へと代わっていったが、リーマンショックや東日本大震災など、内外で課題が噴出するなか、日本の政治は、1年ごとに総理大臣が交代するなど不安定な状態が続いた。

真の「安定した政治」とは

こうした状況に身を置いたことで、福田氏は政治の安定が重要だと考えている。
「今の経済が順調に発展しているのは、政治が安定しているからだ。その時々の状況で政治が左右されるようでは、経済界も安心して、この方針でやろうという方針が立たず、経済がうまく運営できない。だから、政治の安定は、すべての面において大事だ」

ただ、どういう政治が「安定」したものなのか。
福田氏は、安倍政権は評価するとしながらも、こんな注文をした。

「安倍政権は安定している。しかし、それで安住してはいけない。将来を真剣に考えて、政策や方針を打ち出さなければ、安定政権をやっている意味がなくなってしまう。外交的には、政治の安定は極めてよいが、実態を伴わない安定は、外国から、ばかにされる。『日本の政治は安定しているけど、やっていることは、どうもよく分からない』というような話では、評価されないし、尊敬もされない」

「長ければよいというものでもない」

自民党内では、二階幹事長や加藤総務会長から、安倍総理大臣の党総裁としての任期を延長して4期目に入ることもありうるという意見も出ている。

福田氏は、どう見ているのか。
「長ければよいというものでもない。最近は、何年も同じポストについている人も出てきている。6年やっている人とかいるでしょ。慣れが出てきたり、権力がポストではなく、その人にくっついてしまうという弊害がある」

みずからの経験を踏まえて、政治指導者は、次の時代に向けて、何を成すべきか。

まず、外交について聞いた。
「戦後、今までは日米連携、一本やりで来たが、近い将来を考えた場合、ヨーロッパやアメリカは、若干停滞してきていて、先進国は、みんなそのような状況にある。今後、発展する地域はアジアではないか。特に東アジア、中国や韓国もそうだ。彼らとのつきあいを大事にしていかなければいけない。アメリカも、アジアの重要性は認識していると思うし、アジアの発展のためにも、日米が協力しようということを、新しい方向性にすればよいのではないか」

経済政策は、どうあるべきか。
「GDP=国内総生産を増やしていくことが可能であれば、それに越したことはないが、なかなか難しいと思う。人口が大幅に減少していくことが決定的な中で、GDP、経済規模も縮小していくかもしれない。GDPを増やすために、あまり無理をして、いろんなことをやるということは、したくない。GDPが減少し、生産規模が小さくなっていく中で、それにふさわしい国家でなければならない」

生き方そのものを変えよう

最後に、これからの時代について、こう持論を披瀝した。
「天皇制なども、日本のアイデンティティーとしてとても大事だし、伝統文化も絶やすことなく継承してきた。先代からの遺産を受け継いで、さらに発展させていくことで、日本には、単なる経済規模ではない付加価値が付いていく可能性がある。
少子化、高齢化の問題も、先進国はみんな、そういう状況で、今後、アジアの国々も、そういう傾向に変わってくる。日本は、そうした国々に対する指針を与える、先導的な役割を果たしていくべきだ。そのためには、我々の生き方そのものを、変えていくことも考える必要がある」

まもなく始まる「令和」の時代に、政治指導者は、日本を、どんな方向に導いていくのか。また、どんなビジョンを持つ政治家に、この国を導いてもらいたいと国民は願うか。
新しい時代が始まる今、もう一度、考えてみるのもいいかもしれない。

政治部記者
古垣 弘人
平成22年入局。京都局を経て27年に政治部へ。30年10月、自民党の細田派担当に。趣味はベランダ菜園。