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同級生の思いつなぐ 長岡空襲の新たな語り部

  • 2023年09月14日

1945年8月にアメリカ軍が長岡市に爆撃を行った「長岡空襲」。
市街地の8割が焼け、確認されているだけで1488人が犠牲になりました。
時間が経過し空襲を直接経験した人が少なくなった今、新たに自身の経験を語り始めた人がいます。
空襲から長い時間を経て語り始めた背景には、おととし亡くなった同級生の存在がありました。

きょうだいが戦争で犠牲に 優しかった姉も空襲で命奪われ

長岡市に暮らす池田ミヤ子さん(90歳)です。
78年前、12歳の時に長岡空襲を経験しました。

池田さんは、4人きょうだいの末っ子で、きょうだいは仲がよく、姉も兄も優しかったといいます。

しかし、戦争で、そのきょうだいを次々に失いました。
終戦の年の昭和20年3月、海軍に出征していた兄の忠義さんが戦死したという公報が届きました。
長女の壽美子さんは当時東京で務めていましたが、両親に頼まれて長岡に帰ってきました。
ミヤ子さんは、夕食前に姉妹3人で田んぼに行って歌を歌った記憶を今も覚えています。昼夜問わず空襲警報が鳴る日々でしたが、優しい姉と一緒に過ごすことで不安が和らいだといいます。

昭和20年8月1日の夜も壽美子さんは空襲を怖がるミヤ子さんを明るく元気づけてくれました。安心して眠りについた午後10時半ごろ、空襲を知らせるサイレンの音で飛び起きました。

町に火の手が上がり、ミヤ子さんは自宅の防空壕に逃げ込みました。
外で両親と壽美子さんが消火作業に当たっていましたが、しだいに声が聞こえなくなりました。

池田ミヤコさん
「なんとか防空ごうからはい出したら、姉が倒れていたんです。母親は手を握って『壽美子、壽美子』って呼んでますけど動かないし、ものも言わなかった」

火は勢いを増し、倒れた壽美子さんを置いて逃げることしかできませんでした。
次の日、壽美子さんのもとに戻ることができましたが、あまりに多くの人が空襲で犠牲になり、火葬場が足りず、ミヤ子さん一家は自分たちで壽美子さんの遺体を焼いたといいます。

長い時間をへて『語り部』に きっかけは同級生の死

きょうだいを奪った戦争のつらい記憶。
ミヤ子さんはこれまで長い間、こうした記憶を思い出したくないと思い、戦争や自身の体験について、あまり話してきませんでした。
しかし、長岡空襲から76年がたったおととしから、語り部や戦災資料館のボランティアの活動を始めました。
そのきっかけは、長岡空襲の記憶の継承に力を尽くした同級生の存在でした。

おととし、87歳で亡くなった金子登美さん。
自身の経験を長年「語り部」として伝え続けてきました。

ミヤ子さんと金子さんは、女学校の同級生でした。
ともに空襲で家族を失いましたが、戦争の話をすることはほとんどありませんでした。
ミヤ子さんが金子さんの語り部としての活動について詳しく知ったのは、金子さんが亡くなったあとだったといいます。

池田ミヤコさん
「彼女は私たちの知らないところで学校に行って、自分の経験について話したりして。そのことは彼女が亡くなってから分かったようなものだったので。改めて金子さんは偉かったなと。私も何かしなくちゃいけないのではないかと思って」

戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継いでいた友人の志をつなぎたい。
生前、金子さんがミヤ子さんを後任として推薦していたことを知り、長岡空襲の体験を後世に伝える語り部としての活動を引き受けることにしました。

命の尊さ、伝えたい

ミヤ子さんは現在、長岡空襲の追悼式典や小中学校の授業などで、自身の経験を話しています。未来のあった家族を奪われた、今でも忘れられない悲しみや苦しみを伝えています。

「避難に向かう途中で、苦しそうにやけどをした人を乗せた一行が私たちを追い越していきました。それを見た母親が『壽美子はあんなに苦しまずに死んでよかった』とひとり言のように言いました。私は黙っていました。『でもあの人は生きている。なんとかして生きていれば声も出せるし』と思った覚えがあります」
「姉の最期とか兄の最期はいくつになってもきのうのことのように思い出されます。自分の命は大切にしてもらいたい。それが私の切なる願いです」

戦争を直接知る世代が少なくなる一方で、世界ではロシアによるウクライナ侵攻など争いが続いています。
ミヤ子さんは戦争のない社会を目指して、平和の大切さを伝え続けていきたいと話しています。

池田ミヤ子さん
「戦争がないといいと思いますね。ロシアによるウクライナ侵攻について見ていると、いつ何時、大変なことになるかもしれないんだと思います。私が死んだあと、子どもたちがこんなことで命を落とすようなことにならないでほしいと本当に心から思っています」

取材後記

私はことし7月に行われた長岡市の追悼式典で、初めて池田さんのお話を聞きました。
きょうだいの楽しかった思い出、兄の忠義さんの出征の日、姉の壽美子さんが亡くなった時のことなど、丁寧にお話する姿が印象的でした。
涙を流して聞いている人も多く、改めてこうして体験を語り継ぐ大切さを感じました。

長岡市といえば夏の美しい花火大会が有名ですが、この花火大会には、長岡空襲で亡くなった人たちへの慰霊の思いも込められています。
市内では各地に長岡空襲の記憶を伝える場所がありますが、戦後の長い時間のなかで、その体験を語り継ぐ人が減り、少しずつ記憶が薄れていくことが懸念されます。

今回の取材では、池田さんの体験とともに、インタビューで聞いた「子どもが戦争で死ぬようなことにならないでほしい」という一節が、強く印象に残りました。

こうしたことが起こらないように、私も取材で戦争の体験を未来に引き継ぐ取り組みを伝えていこうと改めて思いました。

  • 野尻陽菜

    新潟放送局 記者

    野尻陽菜

    2020年入局。2022年8月より長岡支局。柏崎市の満蒙開拓団の歴史など、戦争や原子力発電所などをテーマに取材。

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