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長崎発 令和の被爆者証言 森田博滿さん

少年時代に見た惨状を石碑に
  • 2023年05月26日

「10歳の少年が見る光景とすれば、あまりにも酷だ」。
78年前、原爆で火の海に包まれた長崎の街を高台から目に焼き付けた男性。当時の状況を問いかけると、男性はそう答えました。「長崎を最後の被爆地に」と願い、男性はおととし、当時の惨状を刻んだ石碑を、原爆投下直後に逃れた公園に建てました。年々被爆者が減る中で、石碑に込めた思いとは。

(長崎放送局記者 郡義之)

“オレンジ色に見えた”

ことし5月、長崎市の原爆資料館で、大勢の修学旅行生を前に、自身の被爆体験を語る男性の姿がありました。森田博滿さん(88)=長崎市=。当時の状況を紙芝居を使いながら、説明していました。ある段になり、森田さんの表情が一瞬、こわばりました。それは、原爆投下直後の友人の変わり果てた姿を説明する場面でのことでした。

森田博滿さん
「私はこの話をするとね、本当はしたくないんです。この話をすると、必ず涙が出てくるんです。自然と湧き出てくるんです。なぜならば、T君の全身やけど。 私はこの姿を見たんです。無残な姿でした。だって人間の姿をしていないんですよ」

森田さんが被爆したのは10歳の時。場所は、爆心地から約1.8キロ離れた自宅でした。原爆が投下された時、森田さんは兄と自宅前にいて、かぼちゃの配給があると聞き、自宅内の父に知らせようとしていました。その時の記憶は、今もはっきりと覚えているといいます。

小学生時代の森田さん

森田博滿さん
「稲佐山の上に落下傘がプカプカ落ちてくるんですよ。 それが落ちてね、ずっと浦上のほうに流れていったんですよ。なんだろうか、なんだろうか見とったんですよ うちの兄貴とね。ポッと(自宅に)入ったんですよ。入って、ドーンときたですもんね。入った瞬間、ビカッとしたんですよ。それもう、なんて言うかねえ、 電気のスパークのような、オレンジ色に見えましたね、私にはね」。

森田さんは、爆風で5~6メートルほど吹き飛ばされたものの、建物の中にいたため、奇跡的にけがはありませんでした。しかし、玄関からわずかに外に出ていた兄は大やけどを負いました。後遺症に苦しんだ兄。そして、7年後、帰らぬ人となりました。

森田博滿さん
「兄貴はですね、もうあと3メートルぐらい来ればね、 やけどしなかった。だから、上半身丸焼け。そして、頭の毛はちりぢり」

公園で見た惨状

原爆投下後の西坂国民学校(現:長崎市立西坂小学校)付近
(長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

原爆投下直後、自宅に火が回り、家族は必死の思いで山の上にある神社に向かって避難しました。その途中、森田さんは、自宅から直線距離で60メートルほど斜面を登ったところにある五社公園=長崎市御船蔵町=である光景を目にします。それは、変わり果てた長崎の街でした。

長崎の街を見つめる森田さん

森田博滿さん
「もうあちこちから火の手が上がってですね、もうすでに長崎全市が火事になって…。火の海ですね。太陽が真っ赤でしたね。あんな太陽は見たことがない、 ほんと。今に至るまでね」

公園内には、多くのけが人が避難し、あちこちでうめき声を上げていました。その数、約100人。何気ない日常の場は、一瞬にして地獄と化しました。

「ここに多くのけが人が倒れていた」と話す森田さん=長崎市、五社公園

森田博滿さん
「血で真っ赤に染まった人や、やけどでね、皮膚をぶら下げて歩く人、ごった返しておったですよ、ここね。けがをしている人が『水、水、水をくれ、水をくれ』って言いましたね。しかし、水もないし、やっていいもんかどうかも分からんからね。子供心にそう思いましたね。地獄ですね、地獄絵図です」。

決意した石碑建立

森田さんは終戦後、東京の鉄骨会社に就職し、10年ほど働いたのち、再び地元に戻ってきました。そして、今から12年前、森田さんはある決意をします。それは当時避難した公園で、原爆投下直後の様子を記した新たな石碑を建てることでした。年々被爆者が減っていく中で、自身の体験を後世に伝えたいと思ったのです。

森田博滿さん
「(町内の被爆者は)15人ぐらいいました。たった1人、私が生き残っているんですよ。だから、生き残った者がこういうことをしなければ、できないんじゃないかと思ってね」。

公園を管理する長崎市に掛け合うこと10年。一部は私費も投じることでようやく石碑が設置されることになりました。そして、その石碑に刻んだのは「あの日の五社公園」。10歳の少年だった森田さんが
あの日見た、この公園の光景を200字で記しました。


あの日の五社公園は
まさに地獄絵図そのものだった。
血で真っ赤に染まった人や焼けただれた皮膚をぶら下げて歩く人で埋めつくされ、
水を求める声がこだましていた

(碑文の一部抜粋)

そして、碑文の最後は、森田さんの願いを込めてこう締めくくりました。

「長崎が最後の被爆地であることを願い 碑を建立する」。

戦争になれば必ず人が死ぬ

来年90歳を迎える森田さん。年々体力の衰えを感じながらも、なぜこれほどまでに自身のつらい体験を話そうとするのか。私のそんな問いかけに、森田さんの答えは明確でした。
 

森田博滿さん
「戦争のようになれば必ず人が死ぬんですよ。私のきょうだいは、全部あの戦争で奪われたんですね。私がたった1人生き残ったんですよ。だから、戦争だけ起こしてはならない」

森田さんは毎年8月9日には、石碑があるこの公園で慰霊祭を行っています。平穏な日々を奪われた自身の体験を2度と繰り返して欲しくないという森田さん。慰霊碑に手を合わせながら、平和への誓いを新たにしていました。

取材後記

戦争の被害者、犠牲者はいつも市民だ。北海道根室市に勤務していた頃、北方四島を追われ、いまだに故郷に帰れない元島民の悲痛な思いを取材したことがある。自分が愛する故郷を破壊され、何気ない日常が突如として奪われる現実。戦争を知らない世代がその思いをはせるには、想像を遙かに絶する。それは、原爆による被害もしかりだ。一発の爆弾で、街が壊され、きょうだいや多くの友人が亡くなった。そうした経験をしながらも、壇上に立ち、多くの若者たちに語り継ぐ活動を続ける森田さん。「100歳になっても頑張る」と語った姿に、尊敬の念を禁じ得ない。年々、戦争体験を語る人が減っている。話を聞けるのは今しかない。そう思いながら、報道を通じて、愚直に平和を訴え続けることが、記者である私の使命なのだと強く思った。

  • 郡義之

    長崎局記者

    郡義之

    地方紙記者を経て、平成22年入局。前橋局、釧路局、ネットワーク報道部を経て2020年から現職。遊軍担当キャップ。

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