140年前 宮崎は鹿児島の一部だった?宮崎の父・川越進にせまる
- 2023年06月09日
現代の宮崎県を誕生させた最大の功労者・川越進。
なぜ宮崎は再置県ができたのか?「宮崎の父」と呼ばれる川越進を特集します。
宮崎は一度 “消滅” した?
1873(明治6)年、廃藩置県によって、それまでの美々津県と都城県の大部分が合併し、宮崎県が誕生しました。
しかし、それから3年後に、旧藩士族の勢力を削ぐ狙いなどがあり、全国的に県の統合が相次ぎました。それまでの3府59県から、3府35県に減少、そして、宮崎県も鹿児島県に統合されてしまいます。
そして、鹿児島統合の翌年から始まった西南戦争では、旧日向国内の大部分が主戦場となり、宮崎は人的にも経済的にも多大な被害を被りました。
西南戦争の名残が宮崎の中心部に
宮崎の繁華街・ニシタチから歩いてすぐの場所に「西郷隆盛駐屯跡」の碑があります。書かれているのは「敬天愛人 南州」という文字。
幕末の混乱から明治維新、そして日本史上最大の内戦である西南戦争と宮崎は激動・戦乱の時代だったことが伺えます。
日向国で不満続出
西南戦争終結後も戦争時の不満や、県庁のある鹿児島から遠いこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどを理由として、宮崎に住む人たちの不満は溜まっていきます。
当時ほかの地方では、徳島県が高知県から、福井県が石川県から独立するなどの事例があり、全国的にも分県運動が高まるなか、鹿児島県会議員でもあった川越進を中心に、宮崎でも県の再置を願う運動が展開されました。
仲間とつかんだ分県
西南戦争で傷ついた郷土の惨状を見て、宮崎の復興・発展は自分たちの手で成し遂げると誓った川越進。何度も県令に嘆願書を提出し、そのたびに却下されますが、粘り強く運動を続けた結果、ついに1883年5月9日に宮崎県が再置されることになりました。
その後、川越進は宮崎県会の初代議長に就任します。同時に、分県運動のころから仲間と話してきた、養蚕や茶の生産などのさまざまな振興策を建言し、新しい宮崎県の発展にまい進しました。
その川越進の胸像は、今でも宮崎県庁にあります。説明には川越らが展開した鹿児島県からの分県運動には「血のにじむような」努力があったと書かれています。
今年(2023年)は、1883年に分県してから140年という節目の年となります。この機会に、ふるさと“宮崎県”誕生ものがたりに思いをはせてみてはいかがでしょうか?