「鎌倉殿の13人」で注目!源頼朝の墓が鹿児島に その理由は?
- 2022年05月02日
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。中でも存在感を示しているのが大泉洋さんが演じる源頼朝。
その源頼朝の“墓”が鹿児島にあります。
なぜ鎌倉から遠く離れた鹿児島に“墓”があるのか取材しました。
(鹿児島局記者 猪俣康太郎)
鹿児島に頼朝の“墓”
鹿児島市にある旧薩摩藩主、島津家の別邸、仙巌園。その隣にある島津家歴代をまつる神社では2月13日、月遅れの命日にあわせて源頼朝の“墓”の前で慰霊祭が行われました。参加者8人の中には島津家32代当主、島津修久さんの姿もありました。しかし、なぜ頼朝の“墓”が鹿児島にあるのでしょうか。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)「島津家の初代忠久が頼朝の落胤(子ども)であるという話しがあります。そういった縁もありましてこちらの方に鎮座して祭っていることになります」
頼朝は政子以外にも・・・
頼朝の妻といえば尼将軍として有名な北条政子が知られています。ただ、頼朝の乳母(めのと)の娘、丹後局が寵愛を受け、子どもを身ごもったという伝説が残されているのです。実は鹿児島には頼朝と丹後局のつながりを示す場所があります。それが鹿児島市内にある花尾神社です。
「さつま日光」とも呼ばれる美しい社殿で知られていますが、祭られているのは…。
(花尾神社・貴島直子権禰宜)「源頼朝公と丹後局をお祭りしておりまして皆さまに多くお参りいただいております」
境内には丹後局の墓も残されていました。伝説では子どもを身ごもった丹後局は頼朝の妻の政子の怒りを恐れ、鎌倉を抜け出し男の子を出産。その子どもが島津家初代の島津忠久だと伝わっています。実際、忠久は頼朝から薩摩・大隅・日向の守護に任命されるなど厚遇を受けています。島津家には頼朝から賜ったという八景釜も伝わっています。
歴史を動かした落胤伝説
こうした伝説から島津家は江戸時代、長い間に荒れ果てていた鎌倉にある頼朝の墓を修復。20年ほど前に鎌倉市に移管されるまで、200年以上にわたって管理を続けてきました。
鹿児島にあるのは、それを記念して鎌倉の市民から贈られた墓のレプリカです。頼朝の落胤伝説は歴史学的に確認されているわけではありませんが、その伝説が歴史を大きく動かす力になったという指摘もあります。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)「薩摩の島津家が地元の人たちだけではなく藩の外からも頼朝の末裔であると認識されていたわけなんですね。だからこそ明治維新の中核になれたのかもしれません。頼朝の落胤(子ども)として責務を果たしていた時代ももちろんあります。墓を管理していたこともそのひとつです。伝説が偽りだとしても捨てるものではなく伝説を見直すことも大事なのかもしれませんね」
頼朝と鹿児島との意外なつながり。それに思いをはせながら大河ドラマを見るのもおもしろいのかもしれません。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)「鎌倉を中心とした大河ドラマかと思いますけど、鹿児島もそう遠く離れているとは思わずにつながりがあるんだと思いながらドラマを楽しむことができるのではないかと思います」
取材後記
学芸員の岩川さんによると、平家が勢力を誇っていた南九州を治めるため、頼朝は関係の深い島津忠久を現地の守護に任命したということです。鹿児島の歴史といえば、どうしても戦国時代や明治維新に目が向きがちですが、より視野を広げていかないといけない。そう思った取材でした。また、この取材に対し思わぬ反響もあり、鹿児島と頼朝との関係についてさらに取材を進めました。詳しくは第2弾でお伝えします。