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薩摩藩の治水技術とは“薩摩義士”の背景に迫る

  • 2022年06月16日

江戸時代に洪水で悩まされていた岐阜県の木曽川などの治水工事に従事し、今でもその功績がたたえられている「薩摩義士」
なぜ薩摩藩が遠く離れた美濃国で治水工事をしたのか、そして、どのような治水技術を持っていたのか、その詳しい記録は残されていません。
ただ、現在でも意外なところに隠されているヒントをたどっていくことで、それがわかるといいます。岐阜県出身の私、庭本が取材しました。

(鹿児島局記者 庭本小季)

多くが犠牲に「薩摩義士」慰霊祭

5月25日、宝暦治水の責任者だった薩摩藩家老の平田靭負の命日にあわせて鹿児島市の平田の屋敷の跡にある公園で慰霊祭が行われました。

江戸時代、薩摩藩は幕府に命じられて木曽三川と呼ばれる岐阜県を流れる▼木曽川、▼揖斐川、▼長良川の大規模な治水工事にあたり、およそ90人の犠牲者を出しながら工事を成し遂げました。

工事に携わった藩士たちは「薩摩義士」として岐阜県でもその功績がたたえられています。ことしは3年ぶりに岐阜県から関係者が参加するなど、100人を超える参列者が祈りを捧げました。

多くの薩摩義士が犠牲になった経緯については▼工事で生じた莫大な負債に責任を感じて自害したという説や、▼病気で亡くなったという説などがありますが、はっきりしたことは分かっていません。

式典では鹿児島県薩摩義士顕彰会の会長で島津家32代当主の島津修久さんが慰霊の言葉を述べました。

鹿児島県薩摩義士顕彰会 
島津修久会長

「再びふるさとの地を踏むことなく、犠牲になった薩摩義士の思いは察するにあまりあります」

岐阜県 海津市から参加 
伊藤仁夫団長

「これからも地元のこどもたちに薩摩義士の功績を広く言い伝えて長く鹿児島と交流して行けたらいいと思います」

燃やされた治水の記録

今でも続く岐阜県との交流のきっかけとなった薩摩義士による治水工事。ただ、なぜ薩摩藩が遠く離れた美濃国で治水工事をしたのか、どのような治水技術を持っていたかについては、詳しい記録は残されていません。

その原因のひとつと考えられているのが鹿児島県初代県知事の大山綱良です。薩摩藩から鹿児島県に変わった廃藩置県に合わせて、薩摩藩時代の藩政の記録をすべて燃やすよう指示したというのです。

ただ、意外なところに当時を辿るヒントが隠されているといいます。

薩摩藩の土木技術とは?

歴史をたどるために私が鹿児島市の天保山公園で待ち合わせをしたのは、鹿児島の歴史に詳しい志學館大学の原口泉教授です。「天保山」は治水工事でできた場所だと教えてくれました。

志學館大学 原口泉教授

「鹿児島市中心部を流れる甲突川の河口は長いこと砂が溜まっている場所でずっと、この場所はしゅんせつしたんです。
天保時代に薩摩藩の財政改革をやるときに甲突川の川ざらえでさらった砂を建てたところが山になって天保山と言うようになったんですね」

当時、なぜ川の流れを変えるという大規模な工事が薩摩藩は出来たのか。原口教授は中国との関係にその秘密があるのではないかと指摘します。

志學館大学 原口泉教授

「薩摩には独特の土木技術が江戸時代初めからあった。もともと中国から優れた技術集団が移住したんです。明の優れた医者とか土木技術者がやってきて島津氏に仕えました。鹿児島城下町を築いてくださったのはそうした中国からの土木技術者だった」

雄藩飛躍への足がかりにも

氾濫を繰り返していた甲突川。薩摩藩は当時、新たな流路を掘って、街の中心部をう回して海に流れるようにしたのです。

そして、その工事を含む一連の改革を指揮したのが、薩摩藩の財政再建に取り組んだ調所広郷だといいます。

志學館大学 原口泉教授

「調所広郷は薩摩藩の物産を中央の上方に送って、財政を潤したかった。そのためにはインフラの整備、港と橋と道路の改修をやった。調所広郷の財政改革をなくして薩摩藩は雄藩として幕末維新の指導者となることは出来ない」

逼迫していた薩摩藩の財政。その立て直しの足がかりが治水工事だったというのです。

薩英戦争の重要な拠点に

こうした治水工事の片鱗が伺える場所がもう一箇所あるといいます。

やって来たのは稲荷川の河口です。この場所も天保の改革で治水工事が行われたといいます。

志學館大学 原口泉教授

「戦国時代からの薩摩藩の治水工事の技術の高さによって出来たのが稲荷川の河口で、多くの異国人たちがこの港に来た。それが祇園之洲」

港を整えたことはその後の薩摩藩の発展に大きく関わります。砲台を設置することが出来るようになり、薩英戦争では藩の重要な軍事拠点になりました。

幕命の背景には高い土木技術か

鹿児島市内に残る様々な治水工事の痕跡。幕府から木曽川などの治水の命令が下った理由には藩の高い治水工事の能力が注目されたからではないかと原口教授は分析します。

志學館大学 原口泉教授

「こういった高い土木技術のおかげで、集成館の軍需工場も出来て世界文化遺産に認定された。薩摩藩が非常に高い他の藩にはない高い土木技術を持っていたことがわかる。だからこそ日本の土木工事史上最大の木曽川の治水工事を命じられたのかもしれない」

取材を終えて

岐阜県出身の私にとって鹿児島県に赴任している間に薩摩義士については伝えたい話題の1つでした。しかし調べるほどに資料が残されていないことに悔しい思いもしましたが、歴史をひもとくヒントは身近な地名にも隠されていました。
薩摩藩の治水技術の裏には中国との深い交流があったことも、鹿児島県の土地柄を感じさせました。原口教授は他にも県内多くの場所で地名と藩の治水の歴史が関わっている場所があるとも話していました。皆さんの地元の近くにも、治水技術の高さがうかがえる場所があるかもしれません。

  • 庭本小季

    NHK鹿児島放送局 記者

    庭本小季

    2020年入局 岐阜県出身 事件事故や防災、調査報道などを担当

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