源頼朝ゆかりの石塔が鹿児島に比企能員の小塔もなぜ?
- 2022年05月06日
旧薩摩藩主・島津家初代が源頼朝の落胤だという伝説が縁で、頼朝の墓のレプリカが鹿児島市にあるとお伝えしました。すると放送後にこのような情報がNHKに寄せられました。
「伊佐市にも頼朝ゆかりの石塔が残されている」
いったいなぜか取材しました。
(鹿児島局 猪俣康太郎)
【伊佐市にも頼朝ゆかりの石塔が】
おはよう日本などでお伝えした頼朝の“墓”。その放送から6日後、鹿児島県伊佐市の公式ツイッターにこんな投稿が…。
「伊佐市には“源頼朝の石塔”と呼ばれる石造物があります」
頼朝の“墓”を取材した私はさっそく投稿をした伊佐市伊佐PR課の原田義壽さんに話しを聞きました。
(伊佐市伊佐PR課 原田義壽さん)
「源頼朝の墓が紹介されたのを見て”伊佐市にも似たような石塔があるじゃん”と思って紹介しました」
その石塔は明治初期の廃仏毀釈でなくなった寺の跡地に残されていました。頼朝を弔う供養塔とみられ、戦前に地元の住民が改修したことがわかっているということです。
【頼朝のあの弟が鹿児島に!?】
しかし、なぜ伊佐市に頼朝の供養塔が建てられたのでしょうか。その手がかりとなる資料が鹿児島県立図書館に所蔵されていました。
江戸時代後記に編纂された旧薩摩藩の地誌「三国名勝図会」です。
(三国名勝図会より)
「頼朝公御石塔 左右に五輪塔あり丹後局と比企判官能員なり」
小さな石塔は頼朝から寵愛を受け島津家の初代を産んだという伝説がある丹後局。
そしてもうひとつはその兄弟だとされ、頼朝の側近で「鎌倉殿の13人」の中の1人、比企能員のものだと記されていました。
さらに石塔があった寺を開いた人物は次のように書かれていました。
(三国名勝図会より)
「俗姓は源氏 幼名乙若丸 源義朝の子といひ傳う」
源義朝とは頼朝の父親の名前。乙若は大河ドラマにも登場した頼朝の弟、義円の幼名です。
頼朝の弟が果たして鹿児島まで来ていたのか?。しかし、さらに詳しい説明については…。
(三国名勝図会より)
「當寺記録火災に罹りし故 由緒考ふべきなし」
火災のため記録が残されていないというのです。
【国境の要衝で頼朝伝説PRか】
この石塔について鹿児島の歴史に詳しい志學館大学の原口泉教授にも話を聞きました。石塔は島津氏が頼朝の子孫であるという伝説を伝えていくため、重要な防衛拠点だった伊佐市に作られた可能性もあるといいます。
(志學館大学 原口泉教授)
「対外的なアピールとそれから領内向けですよね。国境(くにざかい)ですから。
そこに源頼朝の石塔、比企能員、丹後局、この立派な石塔はこれは効き目があったでしょうね。
関ヶ原後、源氏、徳川の世の中になったらすべて源氏色に塗り替えられてしまう。
高等な政治戦略でしょうね。
島津家の政治力を高めるこれ以上のブランドはありませんからね、頼朝は」
その上で 石塔がなぜ作られたのか思いをはせてもらいたいとしています。
(志學館大学 原口泉教授)
「石塔にぜひ目を向けてもらって、どの時代に作られたのか。
作った人が誰なのかというのが歴史はおもしろい。
何を期待していたんだろうな、何を弔おうとしていたのか」
ツイッターに投稿した伊佐市役所の原田さんもこう述べています。
(伊佐市伊佐PR課 原田義壽さん)
「地元の身近な文化財ということで、地元の方々が今も大切に年2回は草払いをして大切に整備をしている。石塔などを見学しつつ大河ドラマでも楽しんで頂いて歴史に触れて頂けたらなと思います」
【取材をおえて】
第1弾の取材に反響があったことから再び、鎌倉殿と鹿児島の関係について調べてみました。明確な解答はありませんでしたが、歴史のおもしろさにまた触れることができました。原口教授によると鹿児島には、ほかにも源氏関連の史跡がたくさん残されているということです。近くにある史跡を訪ねて、歴史に思いをはせてみるのはいかがでしょうか。