2021年07月21日 (水)明治の野球


こんにちは。リポーターの藤本珠美です。

7月16日(金)から、夏の全国高校野球の山口大会が始まりましたね!

2年ぶりの開催ということで、情報維新!やまぐちの中で私が担当している
“思い出ISHIN”のコーナーでも、山口県の高校野球の歴史についてご紹介しました。

日本に野球が入ってきたのは、明治5年ごろ。山口には、明治10年代には入ってきたと
ご紹介したのですが、当時の野球、今とはちょっと変わっていたそうなんです。

 

その様子を表した絵が、番組でもご紹介した明治初期の小学校の教科書に描かれていました。

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絵に描かれているのは5人。そのうちの3人がバッドを持っています。

専門研究員の方によると、キャッチャ-までバッドを持っており、ピッチャーは下投げでボールを投げていたよう。
今のように、塁に出るといったスポーツではなく、ただ「ボールを投げて打つ」遊びのようなものだったそうですよ。

また、道具も当時は今とは違ったようで、ボールは、鉛の玉を中心に入れて布を巻き付けたもの。バッドも自分で削って作っていて、服装も袴を着て行っていたのだとか。
鉛のボール、当たったら痛そうですね・・・。

 

そんな野球が山口では、明治10年代には行われていて、西洋教育が進んでいたり、海外から戻ってきた留学生が多かったりしたからなど、明治維新の影響が関係しているという説もあるそうですよ。

 

野球が入ってきてからしばらく経つと、今の野球に近いものになっていったそうですが、
全国的にまだ統一されたルールはなく、ルールを巡ったトラブルも起きていました。

そこで、旧制山口高等学校(山口大学の前身の1つ)の学生が、『野球規則』という
野球のルールブックを作ったのだそうです。

このルールブック、県内の学校だけでなく、なんと広島など、県外の学校にも配られた
という記録が残っているんです!
もしかしたら、山口の野球が、周りの地域にも影響を与えたのかも?と考えると、
すごいことですよね。

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番組の中では、当時のフォアボールは、ボール4つから9つの中から自由に決めていいことに
なっており、明治32年につくられたこの野球規則によって、山口では「5ボール」とするという
ご当地ルールが定められたということも紹介しましたが、他にも今とは違うルールがあったんです。

その一つが、“ロストボール”。今でこそ、整備されたグラウンドで野球をしていますが、
当時は周りに草むらが広がっていたり、田んぼの横で野球をしていたりしたため、
飛んで行ったボールがなくなってしまうこともよくあったんだとか。
そこで、ボールがなくなってしまった場合のルールまできちんと定められていたんだそうですよ。
当時ならではのルールですよね。

また、今でこそバントはれっきとした打ち方の一つとして認められていますが、当時は“卑劣な技”として本には書かれていました。
思いっきりバッドを振ることが大切とされていたようです。

ちなみに、山口県文書館の特別研究員の方によると、山口では明治時代からクリケットやフットボールなど、他の西洋スポーツも盛んに行われていたんだそうです。他のスポーツも今とは違う形だったのかも?

皆さんもぜひ自分の好きなスポーツの歴史について調べてみてくださいね!

 

また思い出ISHINのコーナーでは、視聴者の皆さんからの情報もお待ちしています。

もし皆さんのお手元に山口の歴史を伝える貴重な資料がありましたら、ぜひ当時のエピソードとともに、
郵送やFAX、メール(思い出ISHINメールフォーム)で教えてください!お待ちしています^^

投稿者:アナウンス | 投稿時間:19時30分

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