瀬戸内海国立公園はこうして誕生した 尽力した香川の人物とは
- 2024年03月15日
瀬戸内海国立公園は、国立公園に指定されてからことしで90年になります。島々が織りなす多島美が特徴ですが、国内最初の国立公園として指定された背景には「瀬戸内海国立公園の父」と呼ばれる香川出身の、ある人物の功績がありました。国立公園誕生の歴史をたどりました。(高松放送局 竹内一帆記者)。
瀬戸内海国立公園の父 小西和
こちらが小西和。「瀬戸内海国立公園の父」と呼ばれています。いまのさぬき市出身で、瀬戸内海の素晴らしさを、科学的な視点などで本にまとめ、国立公園にすることを提唱しました。小西を調べている学芸員は、瀬戸内の将来を思い描いていた人物だったと話します。
さぬき市歴史民俗資料館学芸員の山本一伸さん
かなりの語学力があったりして、世界的な視点で瀬戸内海を捉えられていたのかなと感じます。瀬戸内海の良さを皆さんに、粘り強く訴えて、日本で最初の 国立公園に尽力された方だと思います
外へ出て瀬戸内海の良さを知る
小西は、なぜ「瀬戸内海国立公園の父」と呼ばれるようになったのか。その略歴をたどりました。小西は香川を出て、20代で北海道で農場を経営し、開墾に打ち込みました。そのあと上京し、新聞記者へ転身。日露戦争が勃発したため、従軍記者として、中国東北部やサハリン(樺太)などへわたり、戦況の報告などを行っていました。小西は、戦場から帰る船で見た瀬戸内海の風景に感銘を受けました。「ことばにできない美しさだ」と、当時、出版した本に思いをつづっています。
小西が記した言葉
満州および中国北部を歩いて乾燥無味な風光に飽きた帰路、船が関門海峡に入るや内海の山水が秀麗を極め、ほとんど形容の辞なきに感じたのである
これをきっかけに、小西は瀬戸内海の研究に打ち込みます。そして「瀬戸内海論」を1911年に発表しました。瀬戸内海全域の地形や潮の流れ、文化など、約1000ページにわたって多角的に記した国内最初の本です。小西の恩師・新渡戸稲造も「瀬戸内海は世界の宝石」と、瀬戸内海の価値を本の中で評しています。
研究から政治家へ
小西の瀬戸内海への思いは、研究だけにとどまりませんでした。39歳で国会議員となり、活動を始めます。議員5年目の衆議院の場で登壇した記録には、海外から人を呼ぶため、瀬戸内海や富士山などの美しい自然を生かし、観光向けの設備を整備すべきと主張しました。いまの国立公園制度の源流となったといえる主張です。
国の調査に物申す
国も最初の国立公園をどこにすべきか調査に乗り出しました。しかし、海外の国立公園を参考にしたため、調査したのは富士山や日本アルプスなど、山ばかりでした。これでは瀬戸内海がないがしろにされかねない。小西は当時、国会議員を落選していましたが、危機感を抱き、再び動き出します。新聞紙上で瀬戸内海の国立公園化を繰り返し主張しました。
当時の国の調査について、国立公園の歴史に詳しい奈良県立大学の水谷知生教授が解説します。
日本の国立公園の調査の流れをみると、本来、瀬戸内海をしっかり考えるべきなのに、あまりそこを考えずに置いてけぼりにしていた。小西和は「瀬戸内海をしっかり考えなきゃいけないんじゃないの」、「そこを見落としちゃいけないぞ」としっかり言ったのだと思います
約100年前の思いが実現
1934年。ついに小西の思いが実現します。瀬戸内海が日本で最初の国立公園として、香川県や岡山県を中心に指定されます。その後、範囲は徐々に広がり、11の府県にまたがる国内で最も広い国立公園となりました。高松市にある屋島の山上では、島々の美しい風景を目当てに多くの観光客が訪れています。
すごい、最高ですね
穏やかな海で、広さが違いました
感動しますよね、美しい
今では多くの外国人観光客が訪れる地となった瀬戸内海。約100年前、自然を生かし人を呼び込もうと国会で訴えた小西の思いが実現しています。
外国人が訪れて、日本のよい所を見ていく場所をちゃんと作ろうよと明治の後期頃から主張していたことが、ようやく形になったんだろうなという気がしますよね
美しい景色をいつまでも
小西の故郷・さぬき市の亀鶴公園は桜の花が咲き誇る名所となっています。ここにも小西の足跡が残されています。すぐ近くの神社の境内には、瀬戸内海が国立公園に指定される4年前に建てられた石碑があり、小西が桜の苗木2500本を植えたと記されています。石碑には、この風景が続いてほしいという小西の願いが込められていました。
小西が記した石碑の内容(一部)
長い年月の後には(桜の)木が自然に枯れてくるでしょうから その時々 苗木を植えて補わねばなりません
美しい景色を生かそうと願う小西の思いが礎となった瀬戸内海国立公園。その多島美はいまも多くの人を魅了し、いつも私たちのそばにあります。
※内容は放送当時のものです