伊達政宗は「気遣いの人?」新たに見つかった書状が伝える政宗像と時代背景

勇猛な戦国武将としても知られる
初代・仙台藩主、伊達政宗。この政宗が、今からおよそ430年前、領地をめぐって合戦を繰り広げる中、家臣に宛てたと見られる書状が新たに見つかりました。
多くの書状を送っていることから、「筆まめ」としても知られている政宗。今回見つかった書状からうかがえるのは、「気遣いできる人柄」でした。

(仙台放送局 岩田宗太郎記者)


【箱の中から…】
書状が保管されていたのは、宮城県石巻市にある石巻市博物館。金融機関の理事長を務め、歴史研究家としても知られていた石巻市の毛利総七郎が、およそ70年かけて収集した「毛利コレクション」と呼ばれる、10万点を超える寄贈された文化財を整理する中で、学芸員の泉田邦彦さんが発見しました。

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長細い箱から出てきたのは、縦横30センチほどの書状が軸装された掛け軸。記者の私は、何が書いてあるのかわかりませんでしたが、文末に「政宗」の文字と、特徴的な花押が確認できました。

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調査をした泉田さんによると、織田信長が本能寺で討たれた7年後の天正17年=西暦1589年、伊達政宗が領地の拡大を図り、前線となる今の福島県北部を攻略していた際に家臣に送られたものだとみられています。

【当時の状況は】

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書状が送られた当時、政宗はどのような状況だったのか。東北地方は、多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代。各地で合戦を繰り広げていた政宗は、今の福島県や山形県に領地を広げていく中で、相馬氏が治めていた福島県新地町の付近にあった「駒ヶ嶺城」を奪います。天正17年5月のことです。

今回の書状が送られたのはその2か月後、天正17年7月。相馬氏との緊張関係が続いているさなかでした。

【宛先不明だが、政宗特徴の花押】

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今回の書状は、掛け軸にする際に形を整えるため、宛先が書かれている部分が切り取られていて、具体的に誰に宛てた書状なのかはわからないということですが、
署名にあたる花押には政宗の特徴があり、家臣に対して使用するものと同じだったことなどから、家臣宛の政宗の書状だと判断したということです。

【家臣をねぎらい、警戒を指示】

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相馬氏との緊張関係が続くなか、政宗は家臣に何を伝えたのか。書状の中ではまず、いつ相馬氏が駒ヶ嶺城を奪い返しに来るかわからない中、その周辺で警備を行ってほしいと指示していた家臣が、仲間をつれて周辺の守りを固めていたといいます。

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それに対し政宗は「一段喜悦」と記載。つまり「心から喜んでいる」と、感謝の気持ちを示しています。

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その上で、「太義ながら先之在番これあるべく候」と記していました。「この地域の土地の支配権を与えるので、負担をかけるが、警戒を続けてほしい」と、家臣をねぎらいながら、警戒を怠らないよう指示してしました。

調査を行った、泉田さんは、戦国時代の書状が見つかったことを驚きつつも、当時の、政宗が繰り広げていた戦いの一端がわかると評価しています。

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泉田邦彦さん
「敵がいつ攻め込んでくるかわからない緊張状態にあったことが書状から伝わってくる。家臣に直接指示を与え、気遣い、ねぎらうなど、政宗の人柄もうかがえる価値のある発見です」

泉田さんによると、政宗の書状はこれまでに4000通以上見つかっているとのこと。「筆まめ」で知られている政宗の今回の書状からは、前線にいる家臣にも目を配り、気遣いも忘れない政宗のリーダーシップの高さもうかがえる発見でした。


230814_kaidou_iwata.jpg仙台放送局記者 岩田宗太郎
2011年入局
宇都宮局、科学・文化部を経て
2022年8月から仙台放送局

仙台では、ホヤをさばいては味わう日々を過ごしています