大瀬戸寮の人々 ~寮の初代職員~
- 2024年02月08日
大量のレコードを所蔵する西海市の「音浴博物館」。この場所はかつて日本赤十字社が運営した、ベトナム難民の一時滞在施設、「大瀬戸寮」でした。1980年以降、「ボートピープル」と呼ばれたベトナムからの難民を15年間で671人受け入れました。 シリーズでお伝えしている「大瀬戸寮の人々」。今回は、大瀬戸寮で初代・生活指導員として勤務した男性を取材しました。 (長崎放送局・記者 榊汐里)
【”難民寮”をどこに作る?】
松本勉さんです。
松本さんは、日本赤十字社が運営した大瀬戸寮で難民たちの世話役として働きました。
(松本さん)
「十字のマークがかすかに見えるでしょ。赤十字の十字のマークがあってこの下に我々が手書きで大瀬戸寮って白い字で書きました」
大学卒業後、県の外郭団体で働いていた松本さん。
日本赤十字社がボートピープルを受け入れるのにあたり、世話役となる職員を募集していると知り、応募しました。
(松本さん)。
「若い時は学校の教員になりたかった。それに近い何かないかなと迷っているときにそういった話があったものですから」
日本赤十字社の職員となった松本さん。取りかかったのは、難民を受け入れる施設の場所探しでした。
日本赤十字社は、すでにほかの県の施設で難民を受け入れていました。
住宅地に開設された施設では、近隣住民とのトラブルがあったという話もあり、慎重に候補地を探し回ったといいます。
そこで浮上したのが、西海市の分校跡地。現在の音浴博物館がある場所です。
(松本さん)
「ここは運動場もあるし、昔の学校の跡だから。それと周りに民家がない。すると、地元の方とのトラブルも少ないだろうと」
【初代”生活指導員”に】
こうして「大瀬戸寮」が開設されました。
寮での松本さんの仕事は、難民のサポートです。相談を受けたり、さまざまな手続きを手伝ったりする
生活指導員でした。1日おきに寮に寝泊まりし、生活をともにしました。
(松本さん)
「病院の入院ベッドを譲り受けて。寝る時はそこに組み立てて寝てました」
ベトナム人や難民と接するのが初めてだった松本さん。
最初は、ことばもわからず、「こわかった」と振り返ります。
(松本さん)
「難民の方の性格がわからない。だから、もしかすると何か危害を加えるんじゃないかという不安はありましたね。しかも、ベトナム語が飛び交うわけでしょ。初めて聞くベトナム語ですから何を言ってるのか。それが何かこう恐怖をあおるような感じを受けたんですね」。
しかし、1か月ほどたつと、難民たちの勤勉さに気づき、印象が変わっていったといいます。
(松本さん)。
「ベトナム語と日本語との本を持ってましたね。それで勉強してましたね、ボートピープルみずから。まず最初に声かけられたのが、事務所の私の場合だったら『松本さん』って言ってですね。日本語で話しかけられてきたときには感激ですよね。とにかくうれしかったですね」。
【忘れられない ボートピープルの少女】
日本語を話し始めたことをきっかけに難民たちへの気持ちが和らいでいったという松本さん。さらに距離を縮めるきっかけをつくった、ひとりの少女がいました。
(松本さん)。
「このシーンがよく夢に出てくるんですね」。
グエン・ティ・ガーさん。大瀬戸寮に入ったボートピープルの第1陣のひとりです。両親をベトナムに残し、きょうだい3人で国を逃れました。
ボートピープルは、一家全滅を防ぐため、幼い子どもだけを脱出させるケースがありました。
当時、小学生だったガーさん。親のように慕っていた松本さんのそばをかたときも離れませんでした。
(松本さん)。
「この子は必ず私のそばで一緒に行動してました。遠足にいく時もわたしと一緒で。この子のおかげで、私はそういった壁が取れたのかなと。だから感謝してます、この子には」。
ガーさんとの出会いで、難民との間の壁が取り払われたという松本さん。その後、10年にわたって生活指導員を務め、難民たちとの関係を築きました。
しかし、大瀬戸寮は、アメリカやオーストラリアなど、第3国への出国をめざすボートピープルのための一時滞在施設。家族のような存在になっても、必ず別れがやってきます。
松本さんにとって、つらかったのが「出国の日」です。
(松本さん)。
「一緒に生活をしてますから、情が移る。だから空港で別れる時はつらいですよね。職員の方に引き渡して空港で別れるんですが、この時だけはちょっとじーんときた」
松本さんは、当時を振り返り、目に涙をためていました。
【”みんな”にまた会いたい】
ボートピープルとの出会いで、松本さんは難民や外国人に先入観をもたずに接することが大切だと学びました。
(松本さん)。
「やっぱり実際に難民の方と触れ合ってみて、彼らの姿はあくまでも戦争がああさせてるんだってことですね。ここで落ち着いて生活するようになって明るさを取り戻したのが本来の彼らの姿じゃないかなと思うんですね。ニュースとかいろんな形で、思い描くのと実際に会ってみて話をするのとは全然違う」。
大瀬戸寮が閉鎖されておよそ30年。松本さんはいまも、ボートピープルに思いをはせています。
(松本さん)。
「家族で海外旅行した時に、近くでベトナムの方らしい人がいた時は、”あっもしかして”っていうのはありましたね。ベトナムの人がニュースで出てくると、”もしかしたら大瀬戸寮出身の人じゃないかな”とかですね。もし会えるとしたら、行った先で幸せに生活してるかなというのがね、それがやっぱり一番ですよね」
【取材後記】
いまでも、ガーさんとの別れの日を思い出し、涙を流す松本さんの姿が印象に残っています。ことばもわからないボートピープルが最初は「こわかった」という松本さんが、ボートピープルとの生活を通して導き出したのが、「難民や外国人に先入観をもたずに接することが大切」ということ。私たちを含めた世界中の人たちがこのことの大切さに気づき、実践することができたら、よりよい世界が作れるのではないかと信じています。