あの夏を取り戻せ 3年越しの夢の甲子園
- 2023年12月28日
新型コロナウイルスの感染が拡大していた2020年。夏の全国高校野球が戦後初めて中止され、当時の3年生は複雑な気持ちで最後の夏を終えました。それから3年。彼らは母校のユニフォームを着て甲子園に集結しました。「あの夏を取り戻せ」。佐久長聖高校の元キャプテンは特別な思いで試合に臨みました。
(長野放送局 松下周平)
コロナ禍で甲子園が中止
多くのプロ野球選手を輩出してきた大阪の強豪・関西大学でキャプテンを務める藤原太郎さん。3年前、佐久長聖のキャプテンでした。奈良県出身の藤原さんが中学卒業後に地元を離れる決意をしたのは、何よりも甲子園に出場するためでした。
甲子園に行くために、佐久長聖に進みました
チャンスは入学後すぐに訪れました。1年生の夏、佐久長聖は甲子園に出場。富山代表・高岡商業との2回戦で、藤原さんは2点を負う7回に代打で初めて打席に立ちます。足が震えるほどの緊張の中、必死にバットを振りましたが結果は3球三振でした。
その後は甲子園への切符を勝ち取れないまま最終学年に。キャプテンとして最後の夏にかけていた藤原さんの前に立ちはだかったのが新型コロナの猛威でした。春のセンバツ大会に続き夏の全国高校野球も中止が決定。夏の甲子園の中止は戦後初めてでした。
中止になるだろうということは薄々分かっていましたが、いざそれが公になると気持ち的には本当に落ち込みました
県で優勝するも・・・
それでも気持ちを切らさず、地方大会の代わりに開催された県の独自大会を3年生主体のメンバーで勝ち進むと、決勝では飯山を9対0で下して優勝。長野県ナンバーワンの座を勝ち取りました。
「ある意味、特別な夏になりました」。そう振り返る藤原さんですが、心残りもありました。それは当時の3年生で唯一の甲子園経験者として、1人でも多くの仲間に聖地の土を踏んでほしいという願いがかなわなかったことでした。
自分たちの代で甲子園に行きたかったのが率直な気持ちです。同級生に甲子園の舞台に立ってほしかった
あの夏を取り戻せ
それから3年。藤原さんたちに朗報が届きます。元高校球児の有志が「あの夏を取り戻せ」と銘打ったプロジェクトを企画。クラウドファンディングなどで集めたおよそ7000万円を活用し、各地の独自大会で優勝した高校などから当時の3年生たちを甲子園に集めることになったのです。
参加するのは全国の45校の42チーム。時間の都合上、ほとんどのチームは5分間のノックのみですが、抽せんの結果、佐久長聖は甲子園で試合ができる4チームのうちの1つに選ばれました。
同級生と一緒に甲子園に立てることは、すごく価値があることなので、すごくうれしかったです
絶対に投げてほしい仲間
藤原さんには特に参加してほしいと願う仲間がいました。3年前、佐久長聖のエースだった梅野峻介さんです。入学直後から能力を高く評価され、1年生の夏、藤原さんとともに甲子園に出場するチームに帯同。しかし直前でベンチから外れ、3年間、聖地のマウンドに立つことは出来ませんでした。
現在は関東の大学で野球を続けている梅野さん。秋のリーグ戦でチームの成績が振るわなかったことなどから参加を迷っていましたが、藤原さんは何度も誘い続けました。
1番熱い思いを持っているのは梅野なので、絶対に甲子園で投げてもらいたいです
いざ3年越しの甲子園へ
迎えた当日。佐久長聖のOBチームには、学年全体の半数を超える30人が参加しました。
いよいよ始まった入場行進。およそ700人の元球児たちが甲子園の土を踏みしめます。ボランティアで参加したブラスバンドの演奏も加わり、球場全体が夏の甲子園さながらの雰囲気に包み込まれました。
夢の舞台 チャンスは1回
午後1時すぎ。いよいよ試合開始です。相手は愛媛県の松山聖陵のOBチーム。佐久長聖は頻繁に選手交代を行い集まった30人全員を出場させる計画でした。3番・センターでスタメン出場した藤原さん。打席に立てるチャンスは1回だけだと覚悟していました。
1打席しかないことはわかっていたので、そこにすべてをかけようと
その4球目。変化球をうまくすくい上げると、打球はライトの頭を越えます。1年生で甲子園に出場したときと同じ背番号17を背負った藤原さんは夢中で塁を回ります。佐久長聖のユニフォームを着て甲子園で初めて放ったヒットは3塁打となりました。
1年生の夏も1打席だけだったので、少し思い出しながら打ちました
母が願い込めたミサンガ
スタンドには、奈良から訪れた藤原さんの両親の姿もありました。母親の栄美さんの足首には、息子の甲子園での活躍を願って手作りしたというおそろいのミサンガが巻かれていました。
当時「一緒に甲子園へ行こう」という思いで、息子とおそろいで作りました。諦めていましたが、作ってよかったと思います
間に合った同期のエース
2回の表、佐久長聖のマウンドに上がったのは、甲子園で投げる姿を見たいと藤原さんが願い続けていた梅野峻介さんでした。所属チームの監督の許しを得て、試合開始直前に甲子園入りしました。
大学のチームが不振にあえぐなか、最上級生である自分が参加していいのか迷っていましたが、監督に無理を言って承諾を頂きました
ユニフォームにつけた背番号は、ワッペンを安全ピンで留めただけの急造品。それでも梅野さんは、憧れの甲子園のマウンドを楽しみながら2つの三振を奪いました。
3年前はどこにもぶつけられない怒りや苦しさがありました。まさか自分が投げられるとは思わなかったので、一瞬一瞬が最高の時間でした
3年前の夏は確かに甲子園に続いていた
試合は1時間10分が経過した6回に時間切れで終了。結果は1対1の引き分けでした。それでも佐久長聖は参加した30人全員が出場し、それぞれが晴れ晴れとした表情を見せていました。
大満足です、やっぱり甲子園は素晴らしい場所でした。本当にこういう機会をいただけて、感謝の気持ちでいっぱいです
3年前、甲子園への道が絶たれたことを知りながらも、気力を振り絞り独自大会で優勝した佐久長聖の元球児たち。最後まで高校野球を諦めなかった当時の3年生たちの熱い夏は、確かに甲子園に続いていました。
中止が決まったあとも練習では手を抜かず、独自大会で優勝できたからこそ甲子園に来ることができました。苦しい出来事があっても、コツコツと目の前のことを一生懸命やれば、いい結果がついてくると思うので、それを忘れずにこれからもやっていきたい