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終戦3日後の悲劇 特攻教官はなぜ自決したのか

  • 2023年08月17日

終戦から3日後の1945年の8月18日。いまの上田市で、特攻隊員の指導に当たっていた教官が妻と生後間もない長女とともに命を絶ちました。終戦の影で起きた悲劇。背景を探る中で見えてきたのは、特攻教官として抱えていた苦悩でした。(長野局・長山尚史)

終戦3日後の悲劇

自決現場近くの慰霊碑


上田市中心部から離れた住宅街。山の斜面を少し登ったところに、それはひっそりとたたずんでいました。1956年に地域住民らが私財を投じて建てたという慰霊碑です。

左から 遊佐卯之助准尉・久子ちゃん・秀子さん


慰霊碑に刻まれた名は、遊佐卯之助 准尉(30)。陸軍の飛行学校で教官を務めていました。終戦から3日後の1945年8月18日、遊佐准尉はこの地で妻の秀子さん(22)、生後27日の久子ちゃんとともにみずから命を絶ちました。

上田市内の飛行場跡


戦時中、上田市には陸軍の飛行場があり、パイロットを養成する熊谷陸軍飛行学校上田教育隊が置かれていました。遊佐准尉は昭和15年に教育隊に赴任し、少年飛行兵の指導にあたりました。


教育隊では戦局の悪化に伴って特攻隊の訓練も行われるようになり、遊佐准尉も携わりました。上田市によると、教育隊で学んだ10人あまりが特攻隊員として戦地へ飛び立ったとされます。

調査続ける男性


遊佐准尉はなぜみずから命を絶ったのか。その真相に迫ろうとしているグループの1人、村山隆さん(76)です。村山さんの父・忠夫さんは整備担当として飛行場に勤務し、准尉とも親交があったといいます。

村山隆さん

「身近なところでこんな事件が起きた。とても人ごととは思えない。ただ、地域社会の中ではこの事件はまったく伝わっておらず、自分自身が勉強して広めていかないといけないと思った」

遺族が語る『准尉の人間性』

東京・奥多摩町


准尉の人となりを探ろうと、多くの関係者から話を聞いたり、資料を集めたりしてきた村山さん。8月上旬に、東京・奥多摩町を訪ねました。


目当ては、遊佐准尉のおい、森田敏彦さん(65)。
奥多摩町で亡くなった3人の供養を続けています。
森田さんは、遊佐准尉の軍人らしからぬ人柄について語りました。

遊佐准尉のおい 森田敏彦さん

「陸軍は厳しかったが、当時教え子の間では『遊佐准尉は殴らない』と有名だったそうだ。しかも、殴らないからといって教え子の腕が悪くなるわけではない。Aくんにあった教え方、Bくんにあった教え方をしていた。いまの時代なら、理想の会社の上司だったと思う」

生き延びたがゆえの悲劇

これまでに教え子の証言なども調べてきた村山さんは、遊佐准尉が命を絶った背景には、特攻教官として教え子たちを死地に送り出さざるを得なかった苦悩があったと考えています。

村山隆さん

「教え子たちの証言で、遊佐准尉は指導の中で『君たちの命がなくなるときは自分の命もない』と語っていたそうだ。特攻隊の指導でも『自分もあとで必ず逝く、君たちだけを死なすことはしない』と話した。結果的に生き残ったが、教え子たちとの約束に殉じたのではないか」


優しく誠実であった夫は、なぜ妻と幼子と死をともにしたのか。この日、村山さんは遊佐准尉の妻・秀子さんをよく知る人物と面会しました。
秀子さんの実妹・野村信子さん(93)です。姉一家の悲報に接した時のことを振り返りました。

秀子さんの妹 野村信子さん

「70何年もたっているが、いつ思い出しても悲しい。当時はどうしていいかわからず、悲しくて学校をずっと休んでしまった。命日には必ず仏壇にお線香をあげてお祈りをしています」


村山さんはこの日、秀子さんが両親にあてて書いた遺書を持参しました。当時15歳だった信子さんは読んだことがありませんでした。

秀子さんが両親にあてた遺書

「本当に泣ききれないくやしさ お互いに覚悟していながらこんな事になりました
戦わずして死す身の悲しき卯之助と共に久子と共に参ります」

「戦わずして死す身の悲しき卯之助と共に」
遊佐准尉はみずからも特攻隊員として戦地に赴くことを志願しながら認められなかったといいます。自分だけ生き延びてしまい悩み苦しむ夫と、その様子を見るに忍びなかった妻の姿が浮かび上がります。


遺書を読んだ信子さんは、姉にまつわる1つのエピソードを明かしつつ、一家でともに命を絶った理由を次のように推測しました。

野村信子さん

「遊佐准尉と結婚するときに父が姉に短刀を持たせてあげた。姉の死後、父は『それが悪かったかな』と言っていた。普段姉はおとなしいが、いざとなり覚悟を決めたのではないか。それとともに、姉はやっぱり本当に卯之助さんのことが好きだったんじゃないか。だからこそ一緒に逝くことを選択したのでは」


3人が命を絶った現場には、上司への遺書が走り書きされた、遊佐准尉の手帳が落ちていました。

「決して血迷ったのでもなければのぼせたのでもありません 皇統三千年の歴史を失ひてなんの生き永らへん今後の建設ちょう大なる事業はあれ共 我れにその力すでになし」

「我れにその力すでになし」
戦争で力尽きてしまい、戦後の新たな生活を思い描くことができなかったのではないか。村山さんはそう考えています。

村山隆さん

「生き残ったのであれば、その次の時代に努力して貢献し、新しい時代をつくったらいいじゃないかと頭の中では思った。ところが遺書を見ると『我れにその力すでになし』、エネルギーがないと書いてある。生身の人間だから、すぐ切り替えられなかったんだと思う。遊佐准尉は誠実であるがゆえにこんなことになってしまった」

村山さんは、新しい日本の門出を祝うことなく命を絶った一家の悲劇を今後も調査し伝えていかなければならないと感じています。

村山隆さん

「戦争がもたらしたこの悲劇を忘れてはならない。これは検証して伝え、この事件が持つ本当の意味を1人1人考え、新しい平和な社会をつくりあげるような努力をしていかないといけないと思っている」

悲劇を後世に


村山さんたちは3人の命日の毎年8月18日、上田市の慰霊碑の前で「慰霊の集い」を開催しています。当時を知る人が年々少なくなる中、ことしは新たに「慰霊の会」を立ち上げ、若い世代にも事実を伝えていくことにしています。
誠実さゆえに苦悩した特攻教官と、そんな夫を愛した妻。一家の死は“生き延びてしまった”がゆえの結末と言えるかもしれません。本来は祝福されるべき「生」がまるで「罪」のように感じられてしまう悲劇。それを招いた戦争の残酷さを私たちは決して忘れてはならないと感じました。
 

  • 長山尚史

    長野放送局記者

    長山尚史

    去年8月から長野局。警察・司法キャップを経て遊軍担当として幅広い分野を取材。

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