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飯田線を切り開いたアイヌの測量技師

川村カ子ト
  • 2023年08月15日

川村カ子ト(かわむら・かねと)という人物を知っているだろうか。
いまから90年程前、長野県から静岡県を経て愛知県へとつながる、現在のJR飯田線の建設に尽力した北海道・アイヌの測量技師だ。前人未踏の峡谷地帯での鉄道建設。苦難の末に成し遂げたその偉業とは。地域で語り継がれるカ子トの足跡を追った。
(長野局・村澤大輔)

秘境駅の集まる飯田線

中央アルプスと南アルプスに挟まれた長野県の伊那谷から、天竜川がつくり出す峡谷地帯を経て、愛知県東三河の平野を走り抜ける195.7キロメートルのJR飯田線。近年、この路線のウリとして注目されているのが、人里離れた場所にあるいわゆる“秘境駅”だ。秘境駅を巡るための観光列車「秘境駅号」も走り、鉄道ファンや観光客から人気を集めている。

カ子トの足跡を訪ねる取材は、秘境駅のひとつ、長野県泰阜村(やすおかむら)の田本(たもと)を訪ねるところからスタートすることにした。
この駅は泰阜村田本集落の“最寄り駅”であるのだが、集落から人が通れるだけの細い山道を20分歩かねばたどり着けない。

田本駅へ向かう山道

石や落ち葉に覆われた、足場の悪い下り坂をやっとの思いで歩いていくと、見えてきたのは、切り立った急斜面にへばりつくように設置されたホームと単線の線路。

JR飯田線 田本駅

駅はトンネルとトンネルのわずかな間につくられており、飯田線がいかに険しい山中に通されたかを物語っている。

川村カ子トの生い立ち

川村カ子ト (写真提供:泰阜村)

川村カ子トは明治26年(1893年)、北海道旭川で生まれた。
幼い頃に見た蒸気機関車に憧れ、鉄道の仕事を志したカ子トは、小学校を卒業後、鉄道測量の助手として働き始めた。努力して勉強を重ね測量技師となり、北海道や青森などで活躍した。

そんなカネトは昭和3年、愛知県と長野県をつなぐ「三信鉄道」の測量をするため信州に招かれた。

三信鉄道

現在のJR飯田線の前身は4つの私鉄線だった。
明治から昭和初期までに、愛知県内では、東海道本線とつながる現在の豊橋駅(当時は吉田駅)から北に向かって「豊川鉄道」「鳳来寺鉄道」が。長野県内では、中央本線とつながる辰野駅から南に向かって「伊那電気鉄道」が徐々に線路を延ばしていた。
そして残された愛知県の三河川合駅と長野県の天竜峡駅間、67キロメートルの開業を目指したのが「三河」と「信州」をつなぐ「三信鉄道」(さんしんてつどう)だった。

太平洋側の愛知県へとつながる鉄道は、とりわけ内陸の信州の人たちにとっては悲願であった。
加えて、当時電力の需要が高まる中、ダム建設が天竜川流域で持ち上がり、資材輸送のためにも三信鉄道の早期開通が求められた。

天竜川の険しい峡谷

しかし一帯は、天竜川やその支流の谷が深く切り込んだ断崖絶壁が続き、鉄道の設計に不可欠な測量作業すら手をつけられずにいた。そんな中、三信鉄道は、北海道でどんな危険なところでも測量をやってのけた腕のよい測量技師がいると聞き、カ子トを招いたのだった。

カ子トらの測量作業とは

険しい地形をカ子トはどのように測量したのか。天龍村の平岡駅に併設した観光施設にある三信鉄道の歴史を展示したコーナーを訪ねた。

板倉恒夫さん(左) と 野竹正孝さん(右)

展示コーナーの設置に関わった、村の元教育長・板倉恒夫さんと元鉄道会社社員の野竹正孝さんが案内をしてくれた。真っ先に案内されたのは、やはり川村カ子トに関する展示。
 

野竹正孝さん

「この展示で一番大事にしているのは、測量をしてくれた川村カ子トさん。こういう山の中に線路を通してくれた一番の功労者です」

三信鉄道の測量隊(昭和3年)

鉄道建設における測量作業は、設計図を作るために欠かせない工程で、重い機材を持って険しい山に徒歩で分け入り調査をする必要があった。カ子トが率いる測量隊は日々、道なき道を進み、徒歩でたどり着くのが困難な場所は、舟を使って天竜川から岸に上陸することもあったという。

板倉恒夫さん

「測量隊は本当に命がけの作業をしました。時には木の枝につかまって、岩から岩へと飛び回って測量したと聞いています。これだけの測量をやったというのは、並大抵ではなかったと思いますね」

カ子トが使った測量機器 (川村カ子トアイヌ記念館所蔵)

こうした過酷な測量作業を続けることおよそ2年、長野、静岡、愛知にまたがる天竜川沿い67キロメートルをカ子トら測量隊は調べ上げた。三信鉄道は晴れて着工を迎えることになる。

「三信鉄道線路縦断面図」 資料提供:熊谷組

今回の取材では、当時工事に携わった建設会社が作成した「三信鉄道線路縦断面図」という図面を見つけることができた。三信鉄道67キロの標高や勾配、地形の起伏が見て取れる。三河川合駅から天竜峡駅まで、平地といえる場所はほとんど無く、険しい山・谷・そして勾配。
図面を見ながら、決死の思いで測量したカ子トら測量隊の苦労に思いをはせた。

合唱劇カネト

鉄道建設に挑んだカ子トの半生は児童書の題材にもなり、それを原作とした合唱劇も作られた。
2000年に愛知県で初演された合唱劇「カネト」
長野県内では飯田市民を中心とした「飯田カネト合唱団」がカ子トの生き様を語り継いでいる。

合唱劇「カネト」(脚本:田中寛次 作曲:藤村記一郎 原作:沢田猛「カネト 炎のアイヌ魂」)

ここから南は線路がない、誰も足を踏み入れない67キロメートル ♪

この日、飯田市の和田小学校で行われた公演では、合唱団とともに、共演した児童たちの元気な歌声が会場いっぱいに響き渡る。
幼少期から三信鉄道の建設まで、カ子トの半生がストーリーとして展開される。

「飯田カネト合唱団」団長 清水勝弘さん

「合唱劇は、カ子トさんの子どものころから青年になるまで、そして信州に来てからを伝えています。カ子トさんは今のわれわれでは想像もつかないほどの苦労をしてきました。この事実を多くの人の知ってもらわないといけない」(清水勝弘さん)

工事の現場監督として

合唱劇の中では、測量をやり遂げたカ子トが引き続き、工事の現場監督を任された際の最もつらい体験が語られる。

崖が崩れるぞ!
天竜川沿いの断崖絶壁では、崖崩れや川の増水など自然の猛威が作業を遅らせる。そしてカ子ト自身に命の危機も。

水だ!

トンネル工事で突然の出水事故。騒然とする中、カ子トは、作業員らに水をおさえるよう指示を出す。しかし過酷な現場にいら立った作業員たちは、アイヌであるカ子トの指示を快く思わず、丸太で殴りかかる。

いい気になるな! おまえが現場監督をやるからこんなことになるんだ!
もうアイヌに頼るのはまっぴらだ!

カ子トは作業員たちに思いの丈を語る。

聞いてくれ!俺は北海道にいるときも天龍峡に来てからも、鉄道の仕事にアイヌであることに誇りを持って生きてきた。
おまえたちの夢と希望は、おまえたちの誇りはどこにある!

カ子トは駆けつけた人によって助け出され、九死に一生を得る。カ子トの思いを聞いた作業員たちは改心し、工事完了までともに働くことになる。

鉄道がもたらしたもの

カ子トは数々の苦難を乗り越え、自身の任せられた区間の工事をやり終えると、ふるさと北海道へ帰った。

建設中の三信鉄道 (写真提供:清水勝弘さん)

その後も三信鉄道は多くの人の苦労と、犠牲者54名を伴った難工事を重ね、昭和12年に全線が開通した。完成した67キロメートルの鉄道は、トンネル約170か所、鉄橋約90か所。信州と東海地方が一本の線路で結ばれた。鉄道は山深い村の暮らしを大きく変えた。信州伊那谷に海の幸を担いだ行商がやってこられるようになり、人々の暮らしを豊かにした。

現在の天龍村につくられた満島(みつしま)(現在の平岡駅)の写真には、大勢の人々が開通を祝う様子が写されている。

開業当時の満島駅(現在の平岡駅)
板倉恒夫さん

「この村は山深くかつては天竜川の水運と、非常にせまい山道だけでよその地域と行き来をしなければならなかった。写真を見ても分かるように電車が通ったことで大勢の人が喜んだのです 。村民にとってみると飯田線は本当に幸せな交通手段です」 (天龍村元教育長 板倉恒夫さん)

平岡駅の近くで、名古屋から帰省してきていた親子に出会うことができた。帰省の際はいまでも決まって飯田線を利用するという。

「名古屋からバスで飯田まで来て、そこからは飯田線に乗ってきます。高校に通っていたときも、やはり飯田線に乗っていましたし、本当になくてはならないです」(母親)

小学3年生の娘さんに飯田線が好きか尋ねると元気いっぱいに答えてくれた。

「大好き!電車に乗ると楽しいよ」

天龍村を走る飯田線

カ子トと信州の絆

天龍村に残されていたカ子トの直筆

天龍村には、他にもカ子トにまつわる品が残されていた。工事を終え北海道に帰ってから28年後、再び信州を訪れたカ子ト直筆の署名だ。
昭和35(1960)年、カ子トは、地域の功労者として信州に招かれた。自身が工事にあたった天龍峡などを見て回り、各地で当時のことを語った。

 昭和35年 信州を訪れたカ子ト (写真提供:渡邉美津子さん)


その道中、カ子トは苦労して建設したトンネルについて案内人にこう尋ねたという。

その後、水が出る事故は起きてはいませんか?

案内人が「起きていない」と答えると、カ子トは安心した様子を見せたそうだ。

カ子トの功績を伝える

カ子トの功績を伝える合唱劇。「飯田カネト合唱団」は子どもたちにも参加してもらうことで、地域の歴史を学んでほしいと考えている。

合唱劇を鑑賞した地元の人は。

「ふだん何気なく乗る飯田線にこんな歴史があったことを初めて知りました。
 子どもたちもこうやって歴史を学び、よい経験だと思います」

「飯田カネト合唱団」の清水勝弘団長は、カ子トの存在を多くの人に伝えるため、これからも上演を続けていきたいと話す。

清水勝弘団長

「カ子トさんがいなければ飯田線はできなかった、これは明らかです。
こうした地域の歴史を多くの人に、特に子どもたちに伝え続け、子どもたちが将来大きくなった時に、自分のふるさとには『川村カ子トという人が苦労してつないだ飯田線があるんだ』と胸を張って語ってもらいたいですね」

取材後記

飯田線は、地元の人たちはもちろん、‟秘境駅”などを目的とした旅行客らにも愛されている。
その建設には川村カ子トをはじめ、多くの人々の命をかけた苦労があったのだと、今回の取材を通して知った。信州ではリニア中央新幹線の建設が進む一方、利用が低迷するローカル線のあり方も盛んに議論されている。
鉄道インフラが変革しようとするいまだからこそ、カ子トのような先人たちの努力を、未来に語り継いでいくことが大切ではないだろうか。

 

リポート動画はこちら
 

  • 村澤大輔

    長野放送局映像制作

    村澤大輔

    飯田市出身 ニュース編集のかたわら、市田柿、松本の湧水、未成線など信州の知られざる魅力をこれまで取材。

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