カープ元エース北別府学さん 都城農業高 50年来の先輩がしのぶ
- 2023年06月21日
都城農業出身、プロ野球・広島の元エース 北別府学 さんが6月16日に亡くなりました。ゆかりの宮崎県で別れを惜しむ方にお話を伺いました。
同窓の先輩がしのぶ
都城農業高校野球部の4学年先輩で、50年来の付き合いがあったNHK高校野球解説の岡元孝志さんが、北別府さんの野球人生と思い出を振り返りました。
スターなのに「岡元さん」と気さくな感じで、(宮崎に)帰って来た時にはいつもあいさつに来てくれました。
本当に早く逝ってしまった。
現役時代の19年間は故障もほとんどなく先発ピッチャーを続けていたのに、最後にこんな病魔が待っていたというのは本当に残念としか言いようがありません。
岡元さんは、北別府さんと同じチームで一緒にプレーした経験はありませんが、北別府さんが高校に入学して以来の付き合いがあったといいます。
鹿児島県出身の北別府さんが宮崎県の都城農業高校に進学するきっかけとなったのが、岡元さんがキャプテンを務めていた世代の都城農業野球部。昭和46年の夏の甲子園に初出場するなど、当時は強豪校として有名だったのです。
「大学生よりいい」剛速球
キャッチャーだった岡元さん。
大学に進学後、帰省をして後輩たちの練習を手伝った際、北別府さんのボールを受けたことがありました。
その時の印象について。
高校の時は剛速球ピッチャーでした。
(今測ったら)球速はなかったかもしれないけれど、球のキレがすごくよかった。指先にかかって伸びてくる感じがあって全然落ちないんです。だから打者が一番打ちづらい。大学生のピッチャーよりも球の質は良かったです。当時の(ほかの高校の)監督は「北別府のベルトの上の高さのボールは絶対に振るな」と指導していたと聞きます。
“精密機械”が生まれたわけ
高校卒業後、ドラフト1位で広島に入団した北別府さん。
岡元さんに、こんなことを話していたそうです。
岡元さん、プロに行ったらみんな僕よりもまっすぐが速いんです。コントロール勝負でいかないとどうしようもない、そう思います。
こうして、北別府さんは球の速さよりもコントロールに磨きをかけるようになりました。19年間であげた勝利は球団最多の通算213勝。
“精密機械”ね。努力はしていました。
宮崎の都城みたいな田舎で、周りの人たちがワーワー騒ぐ中、ドラフト1位でプロに行くわけだから大手を振っていく。もし高校の時のように“剛腕”で押していれば、プロでは通用しなかったかもしれません。
切り替えが早かったというのが200勝投手になったことにつながるのではないかと思います。
野球人生を振り返る
北別府さんは、平成6(1994)年に現役を引退してからは広島で投手コーチや野球解説者を務めました。
また、平成24(2012)年には野球界の発展に大きな功績を残した人をたたえる野球殿堂入りを果たしました。
岡元さんは、北別府さんの野球人生について。
「自分の野球人生はこんなに幸せでいいのか」ということを常々言っていました。200勝し、リーグ優勝も経験し、名球会入り。野球殿堂にも若くして入ることができたので、彼を思うと幸せな人生だったのかなと思います。
一度くらいカープの監督をしてほしかったと思っていますが、もし彼の野球人生で不足していたものがあるとすればそれくらいでしょうか。
最後の会話
半年前、岡元さんのもとに北別府さんから電話がかかってきました。
声に張りがなかったので、「体調はどうかね」と尋ねると『何とか頑張っています』と言っていました。声のトーンが下がっていて元気がないし、気になっていたんです。
結構しゃべりましたが、向こうが電話を切りたくないような感じだったのを覚えています。
「頑張ろうね、学。いい年を迎えて」と伝えたのが最後になりました。
大スターというより、弟のように接してきました。本当にお疲れさん、またね。伝えるならそのひと言かな。
本当にいろんな意味でね、がんばったと思いますよ。