“人を支えたい” 震災を経験した小学生はいま
「人を支えられるような人間になりたい」。
小学5年生のときに東日本大震災を経験した少女が、そのよくとしにつづったことばです。
いま、彼女は北茨城市にある消防署で
救急や火災現場の最前線に立って働いています。
あれから13年。
いま、彼女はどんな思いで日々の仕事に取り組んでいるのか。その思いを取材しました。
(水戸放送局 カメラマン 浅野愛里)
北茨城市の消防署で働く原 彩夏さん
原彩夏さん(24歳)です。北茨城市消防署で消防署員として働いています。
消防署での勤務は24時間の交代制で、原さんは朝8時半から翌朝8時半までが勤務時間。火事や事故などがあれば、昼夜を問わず出動します。
いま原さんは「機関員」として、消防車や救急車の運転などを担当しています。
この日は消防車両を使った訓練を行っていました。車両を止めるとすぐにポンプ車の管を防火水槽まで運び、消火活動の現場に水を送ります。いち早い消火につなげるため、ミスが許されない重要な役割です。
水を吸い上げる管は重く扱いづらそうでしたが、原さんは慣れた手つきで素早く水を送り出していました。
原彩夏さん
うまくいかなくて泣きながらホースを巻いてたりしたこともありましたね。悔しくて。
何回も何回も訓練しました。
きっかけは東日本大震災
原さんが消防署員になったのは、小学5年生のときに起きた東日本大震災がきっかけでした。
北茨城市は地震や津波で大きな被害を受け、原さんが住む地区のすぐそばまで津波が押し寄せました。
地震で自宅が半壊したため、原さんは一時、比較的被害の少なかった近所の知り合いの住宅に身を寄せ、避難生活を送りました。断水が続く中、支援物資の水や食料がようやく届いたときのことをいまも覚えています。
原彩夏さん
自衛隊の方が来てくれて、お水とか食べ物を渡してくれました。
すごくありがたかったし、とてもおいしかったのを覚えています。
さらに当時の話を聞いていると、原さんの中で強く印象に残っているエピソードを教えてくれました。
地震が起きたとき、高台にある小学校にいた原さん。津波で帰宅できなくなり不安でいっぱいだったところに、父親が通ることができる道を探して駆けつけてくれたのです。
原彩夏さん
お父さんが迎えに来てくれたときに抱き締めてくれて、それがすごく温かかったのをいま、思い出しました。
震災で感じた、支えてくれる人の大切さ。
震災のよくとしに発行された地元の「震災記」には、当時の原さんの思いがつづられていました。
「自分は、一人じゃない」
「人を支えられるような人間になりたい」
原彩夏さん
今も気持ちは変わらないですね。
人の支えになりたいという思いは強いんです。
いま、人を助ける立場になって
原さんは、生まれ育った北茨城市で人を支えたいと
高校卒業後すぐに地元の消防署員になり、ことしで6年目になります。
原さんが消火や救急の活動で気づいたのは、
人を支えることの難しさと、
相手を思いやる心の大切さです。
原彩夏さん
ただ運ぶだけじゃないですし、ただ火を消すだけじゃない。表情もそうですし優しく伝えてあげる。不安を取り除くような言い方だったり、人の気持ちに立って、寄り添いながらやっていくことが大事だなって。思いやり大事です。
筆者:「いま、人を支えられる消防署員という立場になって、、、」
取材の最後に、消防署内で待機中だった原さんに話を聞いていたそのとき。
「予告指令。北茨城市・・・」
出動の準備を伝える放送が署内に響き渡りました。
原さんはすぐに反応して立ち上がりました。
そして、指令の内容が自分の担当だと分かると、すぐに部屋を飛び出していきました。
わたしも急いで追いかけましたが、すでに原さんは廊下のずっと先にいました。
どんなときでも人を支えられる消防署員になりたい。
原さんは町へと駆け出していきました。
原彩夏さん
関わる人すべての人に思いやりのある消防職員を目指して頑張りたいなと思っています。
「人を支えたい」。
小学生のときの決意をいまも持ち続ける、
まっすぐな思い。
そして、
その思いを実現しようと、
消防署員として奮闘する姿に
同年代のわたしは心を打たれました。
震災から13年。
どれだけ年月がたっても、
変わらない強い思いがある。
これからも取材し、伝えていきたいと感じました。