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戦争が変えた日常を生きるということ  “虐殺の街”ブチャを訪ねて【ウクライナ取材記録】

2月末にロシア軍が進軍し、首都キーウ攻撃の拠点として占拠されたブチャ。およそ1ヶ月にわたって攻撃が続けられ、461人(ウクライナ内務省・ 6月8日時点)が犠牲になったとされている。
これまでもブチャの人々への取材を続けてきたが、戦場が東部や南部に移る中、市民から「別の戦争を闘っているようだ」というメッセージを受け取った。
「虐殺が起こった街」として世界に伝えられた場所に暮らす人たちは、いまどんな日々を送っているのか。その実態を取材するため、現地に向かった。

そして、現地取材中、ロシア軍によるウクライナ各地へのミサイル攻撃がはじまり、取材班もその渦中に置かれることになった。現地でつけていたメモをもとに、取材者が感じたことを含め、取材記録をまとめた。

9月末 ウクライナの首都キーウへ

ウクライナの首都キーウまでは、日本からおよそ8000キロ。トルコのイスタンブール経由でまずはウクライナの隣の国・ポーランドへ。ウクライナとの国境に近いポーランド南東部の都市ジェシュフから徒歩で国境を渡り、そこからは手配していた車で首都キーウまで移動。陸路で10時間のみちのりだ。

車窓からの景色

絵本から出てきたような美しい家々とのどかな自然、カボチャを運ぶ馬など。“戦争が起きている”ということを一瞬忘れてしまいそうな穏やかな景色が続いていた。
首都キーウに近づくに連れてバリケードやウクライナ軍の兵士が立っている検問が増え、「戦争」を少しずつ感じ始めた。

首都キーウ 戦争のなかにある日常生活

首都キーウでは、多くの人々が行き交い、カフェやレストランで食事を楽しむ人や買い物に出かける人々など。みな一見“普通”に生活していた。

しかし、そんな日常の景色のなかに当たり前のようにバリケードがあり、街の中心部の独立広場には人々が祈りをつづったウクライナの国旗があふれ、若者はウクライナ国家を歌っている。そして、市役所に掲げられている垂れ幕には南部の要衝マリウポリでロシア軍との戦闘に参加した準軍事組織「アゾフ大隊」の文字。毎日数回、防空警報が鳴り響くものの、人々はゆっくり空を見上げたり、聞こえていないかのように過ごしていたり。焦る人はほとんどいない。戦争の影がついてまわる中で、日々の生活を続けていた。

市内中心部にある独立広場には無数の国旗
キーウ市庁舎に掲げられた「アゾフ大隊」の垂れ幕

キーウからブチャへ

首都キーウからブチャまでは車で40分ほど。ブチャへ向かう道中には激しい空爆のあったイルピンがある。黒く焼けた民家や商業施設、ロシア軍の進軍を防ごうと破壊した橋。現在は再建に向けた工事が進められており、作業員は表情なく黙々と作業にあたっている。

イルピンで破壊された橋

イルピンと比較すると一見破壊の跡が少ない町に入っていく。ここが大量虐殺のあった「ブチャ」だ。建物の修復も進み、行き交う車も多い。車窓からの街並みを見ていると、被害の跡は見えにくい。
ただ、車を降りて目をこらすと、住宅の玄関やフェンス一面に数え切れないほどの銃撃のあとがある。それが集中しているのは私の足下から頭くらいの高さまで。そこで感じたのは、「ここは人間が人間を殺した場所なのだ」ということ。ロシア側の兵士の正面に立たされて、あるいは背後から、うつぶせになって…。この街の人たちが体験した恐怖に思いを馳せた。

学び舎で見た“再会と不安”

最初に訪れたのは、ブチャで再開したばかりの学校。小学生から高校生までが学んでいる。
学校のまわりで校舎を撮影していると、歓喜の声が度々聞こえた。教師と生徒の再会だ。街の外に避難していた生徒がブチャに戻って来たのだ。その様子にはこみ上げるものがあった。

教師と生徒たちの再会の場面に立ち会った

校舎の中に入れてもらうと、大きな教室で1人パソコンと向かい合ってオンライン授業をする先生の姿があった。先生は少し寂しそうだったが、生徒たちとオンラインでつながると、生き生きとした会話が見て取れる。
遅刻をしてきた生徒をしかり、携帯電話にチャットで質問を送ってくる生徒には嬉しそうに対応している。学校の校舎の修復はかなり進んでいるように見えたが、全校再開の時期は「(攻撃に備えるための)シェルターが完成したら」だという。彼らは戦争の長期化を見越していた。

日常になった「死」と祈りの場

取材に入って2日目。取材予定だった人から「明日もお葬式に行くことになってしまったから予定を変えてほしい」という連絡が入った。市民の身近な人が日常的に亡くなっていることを、改めて感じさせられた。

翌日はブチャに入って最初の日曜日。撮影に向かったのは、ブチャの中心にある聖アンドリー教会。
もともと市民の心のよりどころであった場所だが、教会前の広場は占領下で亡くなった人々の臨時の遺体埋葬地となった場所でもある。

毎週日曜日は朝9時から礼拝が行われており、街の外に避難している人たちのために礼拝の様子はオンラインで配信もしている。
印象的だったのは、教会に1人で来ている人が多いということだった。礼拝中、柱に身を寄せ、コートを着たままスカーフで顔を覆うようにして涙を流している女性がいた。礼拝後に話を聞くと「詳しくは話せないけど、大切な人を亡くした」と話してくれた。

教会の地下には古くからの「祈りの場」があり、次々と地元の人たちがやってきて祈りを捧げていた。

「第二次世界大戦より酷い。今回は市民が殺されている。第二次世界大戦の時はドイツ兵がヘルメットにおかゆを入れて配ってくれた思い出があるけど、そんなわずかな良い思い出もないのよ」と話す88歳の女性。
40歳の男性は、「私は信心深いわけではないけど、東部で兵士として闘っている弟と1週間前から連絡がつかなくなってしまって不安で。今は毎日ここに来て祈っている」と話した。
また、ブチャの病院に30年以上勤めているという女性は、コートの下に仕事着を着たまま訪れ、「毎日、仕事の間に2回来る。ここで祈ることが心の支え」と語った。
そして祈りを捧げた後は「今から仕事へ行く」、「このあと家に帰ってやることがある」と言って、それぞれが“今の生活”に戻っていった。終わりの見えない戦争のもとで、一人ひとりが、心の傷や不安に押しつぶされずに生き続ける方法を、模索しているように見える。

プーチン大統領「4州併合」の演説

ロシアのプーチン大統領が、ウクライナの東部や南部の4つの州を併合するという演説を行った日。私たちは仮設住宅で取材をしていた。日本の同僚から「大きなニュースだ」と連絡が入り、私たちもこの事態を重大な局面として受け止めた。
ところが、仮設住宅で暮らす人々に話を聞いてみると、彼らは全く相手にしている様子はなかった。
「そんなものを見ている暇はない」とあきれながら洗濯をする女性。
「エンターテインメントとしては面白いね」とあざ笑う男性。
「いちいちあの人のいうことを気にしていられないわよ」と笑い飛ばず女性。

ブチャの仮設住宅

動揺している私たちとは全く違う。なぜ、彼らは冷めたような様子でいるのか。彼らの言葉の裏には何があるのか――。それを知りたいと思った。

“ロシア”との距離感 “東部出身者”への複雑な思い

彼らに“2月から始まったウクライナ侵攻”について尋ねると、ほとんどの人が2014年の“クリミア併合”のとき、あるいは旧ソ連時代にさかのぼって話を始める。彼らの起点は遅くとも2014年であり、決して戦争は今に始まったことではないのだと実感させられた。

そして、ブチャは2014年以降、東部(ドネツク州・ルハンシク州)やクリミアなど戦場となった地域の避難者を積極的に受け入れてきた街であることもわかった。現在、東部からブチャに避難した人は5000人以上(ブチャ市役所・10月22日時点)にのぼる。今のブチャの人口がおよそ2万3000人であることを考えるとかなりの数だ。
旧ソ連時代からブチャで暮らしている男性に話を聞くと、2014年に“親ロシア派”が一部暮らす東部から多くの避難民が来たときも多少の不信感や猜疑心(さいぎしん)がなかったわけではないのだという。ただ、8年の歳月を共に暮らす中で全く気にならなくなった。
「ブチャで子どもを産み、ベビーカーをひいて歩いている姿を見てとても幸せな気持ちになった。戦争から逃れて今は安心して暮らせているんだということも嬉しく思うようになった」と話してくれた。

ロシア軍による攻撃を受けた部屋の中で

そのなかで起きた今回の戦争とブチャでの虐殺。溶けたはずの不安や猜疑心が、より強いものとなって表出し、住民の心を壊していた。先の男性は、自分が見ていた景色も、疑わなくなっていた“東部出身の人間”も、もう信じられなくなったという。そして、その気持ちは「生きているうちにはきっと変わらない」と語った。

住民の中には、ブチャで起きた虐殺の背景には「東部からの避難者の中に工作員がいたからではないか」と考えたり、「戦争はあなたたちのせいだ」と今回避難してきた人に行き場のない怒りをぶつけたりする人もいる。一方で、東部から避難してきた住民は「2014年にさまよい、今また、さまよっている」と苦しみを語り、行き場を失っている。

プーチン大統領の演説に対して、住民たちが口々に吐いた冷めた言葉。そこには、現状の苦しみを“別の戦争”、“内戦”という言葉で訴えていた彼らのやりきれなさがあったように感じた。

「平和な空のもとで生きること」

10月9日。今回の滞在中、最後となる日曜日、再び教会へ向かった。
そこで出会ったのはブチャに戻ってきた家族。母親のユリアさんは避難先のポーランドで出産した子どもとともに、一週間前にブチャに戻ってきた。この日は、子どもの洗礼式のために教会を訪れたのだという。教会に人々が笑顔で集う姿を初めて見た瞬間だった。司祭もこれまで見たことがない笑顔で子どもを抱きかかえていて、胸が熱くなった。洗礼式の後には1組の結婚式も。人々のこうした姿もまた、ブチャにある確かな現実なのだと思った。
ユリアさんに子どもの将来に何を願うか聞いたとき、「平和な空のもとで生きること」と話してくれた。その後に彼女が流した涙は忘れられない。
新たな命とともに、この地で再び生きようとしている人がいる――。希望があることを信じたいと思った。

洗礼式にやって来た親子

10月10日朝 ミサイル攻撃の下で

取材も終盤。撮影が終わってキーウの宿に戻った夕方頃、キーウに防空警報が鳴り響いた。動画を撮影した後避難所に向かったが、焦りはなく、歩いて避難所に向かった。最初にこの警報音を聞いたときと比べて、どこか慣れてしまっていることに気づいた。

その翌日、10月10日。この日は、午前11時からキーウでインタビュー取材をする予定だった。ロケクルーに連絡のメールをしていた8時15分すぎ、大きな爆発音とともに部屋の窓がビリビリと音を立てて揺れた。何が起きたかわからず外を見ようとするとまた大きな爆発音2回が続き、ただ事ではないことを感じてまずは走って避難所に向かった。
取材先と電話で安否を確認し合い、その日予定していた取材は全て中止に。最初の爆発音から1時間ほど大きな爆発音が断続的に続いた。

爆発があったのはキーウ中心部の大通りや公園など。ウクライナ国内で少なくとも市民ら19人が死亡し、105人がけがをした(ウクライナ非常事態庁・10月11日時点)。
ちょうど通勤中の時間帯で、市民が街に出始めたころだった。爆弾が降り注ぐ空の下に立ったとき、一人の人間として、その小ささと無力さを体で感じた。そんな抵抗する術を持たない私たちのなかから、この日また多くの人が命を失った。理不尽に、攻撃した者には少しの痛みも伝わらずに。なぜこんなことが続いているのか、終わらないのか。悔しくてたまらなかった。

全土でロシアによるミサイル攻撃が続くなか、西部ではインフラ施設への攻撃で停電や断水が起こり始めていた。防空警報が鳴り止まず、私たちは当初予定していた帰国日を延長。2日間避難所などで過ごした後、警報が出なくなったタイミングでキーウをあとにした。そして、ポーランドとイスタンブールを経て14日に帰国した。

そして今…

10月10日以降、西部だけでなく全土でインフラ施設への大規模な攻撃が行われており、今ウクライナは深刻な電力不足に陥っている。現在、国内のエネルギー関連施設のおよそ半分が被害を受けており、今月18日、ゼレンスキー大統領は「首都キーウと17の州で電力の供給が困難な状況になっている」として、復旧作業を急ぐ考えを改めて強調した。
私たちが取材をしたブチャの人々も、この2週間は、平均して毎日少なくとも半日は電気が使えない状況だと連絡が入った。明かりがない上に、インターネットが使えないことも多くて情報を得るのも苦労しているという。
さらに、「10月10日の攻撃で恐怖の日々に逆戻りした。防空警報が鳴ったらすぐにシェルターへ行くようにしている」という声も。

突然命が奪われる恐怖を再び突きつけられ、寒さが厳しくなる冬にさしかかった今、インフラも奪われ始めている。戦争によって壊されたかつての日常生活は戻ってこないが、その中でも必死に生き続ける方法を模索し、生活を再建し始めていた矢先に、またその生活をも奪う現実の惨(むご)さに言葉を見つけられない。
何も力になれないことに愕然とすることも多いが、彼らとのやりとりを続け、実態を記録し続けていきたい。そしてまた、ここで皆さんに伝えることができたらと思う。

この記事の執筆者

報道局社会番組部・おはよう日本 ディレクター
吉岡 礼美

みんなのコメント(2件)

感想
けいちゃん
50代 男性
2022年12月22日
戦争って、相手をリスペクトって言うんですか?敬意を持って接する事ができない人が起こすのでしょうね。敬意が持てないってことは、人として幼いことではないかな?
感想
けいちゃん
50代 男性
2022年11月24日
路上などで不特定多数の人を殺害する人が、時々いるが、プーチン氏はまともな顔でそれをやっている。でもそれは顔だけである。自身がおかしいことを、おそらく本人は気付いていないのだろう。