
性暴力被害に遭った私が“加害者”を取材して感じたこと
セクハラや盗撮、わいせつ行為…。ディレクターである私自身、これまでさまざまな性暴力の被害に遭ってきました。
性暴力問題を自分事と捉え、“被害”を中心に取材を進める中で、痛感したことがあります。それは、被害を生み出す“加害”にも目を向けなければ、被害は永遠に繰り返されるのではないかということです。
私は性暴力を根絶するための糸口を探るため、加害者に直接会い、取材することにしました。そこで感じたのは、想像をはるかに超えるものでした。
(首都圏局ディレクター 二階堂はるか)
※この記事では、性暴力被害の実態を広く伝えるために、加害の手口やことばなどについて触れています。フラッシュバックなど症状のある方は十分にご留意ください。
加害を許容するような社会
小学生から社会人に至るまで、私は性暴力の被害に遭ってきました。教員にスキンシップとして体を触られたり、見知らぬ男に盗撮されたり、通学途中に性器を見せられたり。働きだしてからは、夜道で背後から突然襲われそうになったこともありました。
当時は“不快な出来事の一つ”としてしか捉えられなかったのですが、数年前、これらの出来事はすべて性暴力だと明確に理解できたときから、私にとって性暴力は自分事になり、取材を始めることにしました。
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そして痛感したのは、被害者は加害によって心や体、人としての尊厳をむしばまれるにも関わらず、社会はあまりにも加害に寛容ではないか、ということです。
そう思うようになったきっかけは、2年前、取材で訪れた名古屋の地下鉄の駅での出来事でした。地上に出ようとエスカレーターに乗ろうとしたとき、近くの壁に貼られた紙が目に飛び込んできました。
大きな文字で「盗撮注意」。エスカレーターを使用する人に向けて、盗撮の被害に遭わないように気をつけてください、という注意喚起でした。
私は貼り紙の前で足が止まってしまいました。なんだか引っかかったのです。なぜ被害に遭う側が盗撮に気をつけなければならないのだろう…。確かに自衛することも大事だとは思うのですが、盗撮は犯罪なのだから、まず盗撮をする側、加害者に対して「盗撮禁止」などと示すほうが先ではないだろうか。
「盗撮注意」だと、盗撮があること自体は問題視せず、逆に盗撮は社会にあるものだから、被害に遭わないよう被害者側が気をつけましょうと、盗撮を“許容”しているようにも受け取れはしないか…。モヤモヤとした感情を抱きました。

このときの違和感は、性暴力の取材を重ねていく中で、さらに大きくなっていきました。
被害者の話を聞くと、実に多くの人たちが周囲や社会から冷たいまなざしを向けられていたのです。
「あなたが言っていることは うそなんじゃないの?」
「そういう格好しているから被害に遭うんだよ」
「本当は気持ちよかったんじゃないの?」
「さっさと忘れたほうがいいよ」
「考えすぎなんじゃないの?」
なぜ責任が問われるのは加害者であるにも関わらず、社会の感情が向かうのは被害者なのだろうか。これでは被害者が矢面に立たされ、加害者は隠れたままではないか。
加害を可視化して、少しでも加害者のほうに社会の感情を向けたい。加害事態を知ることで、なぜ加害したのか、加害を助長したのは何なのか、加害を生まないために何ができるのかなどを考えることにもつながるのではないか、と思うようになりました。
また、被害に遭った人間として加害者にずっと問いたいこともありました。なぜ加害しようと思ったのか。相手がどう思うか、どれだけ傷つくか、想像しなかったのか。人間の尊厳を傷つける行為を、なぜ同じ人間としてできたのか。私がいくら考えても分からなかったこれらの疑問の答えを、加害者のことばの中に見出したかったのです。
あまりに“普通”に見えた加害者
日本では、性暴力の加害について治療や研究を行っているところは数えるほどしかありません。その一つ、横浜市にある大石クリニックという精神科病院を訪ねました。
30年以上前から薬物やアルコールなどの依存症を専門に扱い、13年ほど前からは、性犯罪や性的な問題行動などを繰り返す人たちに対しても治療を行っています。これまでに、小児性加害、強制わいせつ、盗撮、痴漢など2,000人以上が治療を受けたといいます。

クリニックで行われている治療の一つが「認知行動療法」と呼ばれる心理療法。3か月を1つの単位とし、臨床心理士などの専門家と一緒に取り組みます。
加害をしたいと思う気持ちや状況など「加害の引き金」を検討し、それを避ける言動や生活などを考えたり、「スカートを履いているから加害してもいい」「抵抗しないというのは受け入れているということだ」など加害を正当化するみずからの誤った価値観を「間違っている」と自覚したりすることで、加害をしない選択を続けていきます。現在、週にのべ100人ほどが治療を受けているといいます。

治療の様子を取材させてもらうことになった私。いざ実際に加害した人物に会うとなると、どんな人物が現れるのだろうと少し怖くなりました。同時に、これまで蓄積してきた加害者に対するドロドロしたような嫌な気持ちも湧き出てきました。加害者のせいでどれだけ心が踏みにじられてきたか。自己否定する気持ちにさいなまれたか…。
こぶしを振り上げるような気持ちをなんとか抑えながら迎えた取材当日。治療が行われている部屋に入り、加害者の姿を見たとたん、拍子抜けしてしまいました。
3人の加害者が座っていたのですが、その姿があまりにも「普通」に見えたのです。むしろもの静かで控えめ。道ですれ違う人や、電車で隣に座る人のように、これといった特徴を感じないような印象でした。「あ、すみません、遅れました…」と途中から入ってきた加害者については、爽やかな好青年といったことばがあてはまるほど…。
この人たちが盗撮をした?痴漢をした?強制わいせつをした?私は混乱しました。加害者たちと卑劣な加害行為との間に大きなギャップを感じ、目の前の状況と自分の感情が合致せず、何が何だか分からなくなりました。
女性を“モノ”として見る ゆがんだ価値観
しかし、治療を受けている人たちに個別に話を聞いたとき、彼らの価値観は “ゆがんで”いると感じました。
「よろしくお願いします」と挨拶してきた、51歳の男性Aさん。「自分がしてしまったことへの反省として伝えられることがあれば伝えたい」と取材に応じました。
これまでに電車やバスの中などで痴漢行為を繰り返し、複数回服役してきたといいます。どれだけの加害をしてきたのかとAさんに問いましたが、「それは言えません」とかたくなに答えようとしませんでした。しかし、Aさんが加害を繰り返してきた年数と1日の加害回数を単純に計算すると、その数は「万」近くに及んでいました。
警察庁が「迷惑防止条例違反のうち痴漢行為」として発表しているのは年間3,000件前後。しかしこれは「検挙件数」であり、被害届は出したけれども加害者が特定されなかった、証拠がないなど立件されなかった件数はカウントされておらず、実際の被害件数はそれ以上だと指摘する専門家もいます。
性暴力の被害は日常に無数にあるという現実を、このとき実感をもって突きつけられました。

Aさんが痴漢を始めたのは高校2年生のとき、通学で利用していたバスの中でした。動機は「女性の体はどうなっているのだろう」「触ってみたらどうなんだろう」という異性への興味関心。
Aさんが「偶然」を装って女性の体を触ったところ、その女性がけげんそうに後ろを振り返ったり、何か反応したりしたかは定かではありませんが、何事も無かったように感じたといいます。こうした“成功体験”が、次もまた触ることができるはずだ、次はこうしてみようなど、行為を徐々にエスカレートさせていったといいます。
社会人になると、痴漢行為がさらに加速したというAさん。その理由は性欲ではなかったといいます。
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Aさん
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「つまらないときとか、刺激がないとか、仕事でうまくいかないなっていうときに、加害に逃げるというのはよくありました。加害することで何か変わるんじゃないか、風向きが変わるんじゃないか、加害によって生きるエネルギーをもらおうと当時は考えていました」
時には、朝の通勤ラッシュに合わせて電車内で痴漢をし、駅周辺で時間をつぶし、夕方のラッシュを狙ってまた痴漢をすることもあったといいます。

私はあっけにとられました。取材者として、まず相手のことばを理解しようと努めましたが、Aさんの価値観や思考回路を理解できませんでした。Aさんに、ストレス解消の方法は他にもたくさんあるはずなのになぜ痴漢なのか、問いました。
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Aさん
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「第一に痴漢はお金がかからないっていうのが自分の中にすごいありました。触れることができたという達成感もありました。加害に至るまで自分の気持ちが徐々に高まっていって、痴漢できたら自分の頭の中で『やったー』と最高潮に達して、その繰り返しでした。あとは支配欲も満たされたんです。日常的に触れない場所を自分は触ることができているという感覚、自分じゃない相手の体を自由に触って、相手を自分の思う通りにさせているということが支配しているように感じられたんです」
身勝手な言い分にことばを失いながらも、私はずっと加害者に問いたかった疑問をぶつけました。相手がどう思うか、どれだけ傷つくか、想像しなかったのか。人間の尊厳を傷つける行為を、なぜ同じ人間としてできたのか。
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Aさん
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「痴漢が犯罪という概念はほとんどありませんでした。電車の中で『ただ触っただけ』じゃんって。自分の行為が相手の女性を傷つけているとか、女性に対して申し訳ないという気持ちはほとんどありませんでした。相手の女性は人間ではなく『モノ』として見ていました。これ以上触ったら捕まるのではないか、周りにばれるのではないかとか、自分のことしか考えていませんでした。相手への気持ちがあったとしても、これぐらいです」
Aさんが親指と人差指でつくったその幅は、もはや無いに等しいものでした。女性を意志や感情を持った1人の人間ではなく、“モノ”のように見ていたのです。
被害に遭った後、頑張ろうとか明日も生きようという前向きな感情がへし折られたり、被害に遭った場所に行けなくなったり、女性というだけで勝手に性的対象として捉えられ、利用されるという屈辱感が悔しくて忘れられないというのに、加害者にとって加害は「日常の一部」だという現実を突きつけられました。
被害者と加害者のこのあまりに大きな差に、私は人間に対して失望のようなものを感じました。

その後も私は、痴漢、盗撮、強制わいせつ、小児性加害をしたという人たちに話を聞きました。彼らは治療を継続的に受け、みずからの罪を省み、再犯はしていないということですが、そのことばに私は再び大きなショックを受けました。
子どもに性加害したことがあるという男性は、これまで加害してきた人たちに対して「本当に申し訳ない」という思いを口にしました。私はその後にどんなことばが続くのだろうと思って聞いていましたが、それだけでした。
路上で痴漢を繰り返したという男性には、私自身の被害や、その後の人生にどれだけ影響を与えたのかなど、できる限りのことばや感情で説明しましたが、男性は「本当に申し訳ない気持ちや、やってしまったことへの反省や後悔はあるのですが、どこかでひと事みたいな気持ちがあるんです…」と言いました。
謝罪してほしいわけでも、被害者の気持ちをすべて理解してほしいわけでもありません。それでももう少し想像力を働かせ、ことばを尽くすことができるのではないかと思わざるを得ませんでした。
“加害者はみずからの加害を語ることばを持っていない”
なぜ加害者は被害者の気持ちを想像しにくいのか。これまで2,500人以上の加害者を調査、治療してきた大船榎本クリニックの精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳さんに聞きました。

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斉藤章佳さん
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「加害者はなぜ自分は加害をしたのか、加害がどれだけ人を傷つけるのかなど、みずからの暴力性について語ることばを持っていないんです。言い換えるとすると、自分の加害行為を語ることばの豊かさを持っていれば、そもそもこのような事件を起こしていなかったかもしれません。彼ら自身も人生の中でことばを奪われてきた逆境体験をしています。加害者臨床の中では、過去にモノ化された被害者が、大人になり力を持ったときに自分よりも弱い立場の人をモノ化するという負のサイクルに出会うことがよくあります。この負のサイクルを断ち切るのも、加害者臨床の役割です。
さらに言うと、男性は被害者がどのような世界を見ているのか理解しづらいということも影響していると思います。男性は普通に社会で生きている中で、性の対象として消費される経験がほとんどありません。自分が盗撮や痴漢をされるかもしれないとか、性被害に遭うかもしれないという前提の意識では生きていないと思います。しかし女性は、テレビ、雑誌、ネット、電車の中吊り広告にいたるところまで、日常の中で常に性的な存在として消費されているし、女性は性として消費されることが当然だという刷り込みがいたるところにあります。男性の性被害もありますが、性暴力に関して、男性と女性は見ている世界がそもそも違うのです。加害者は被害者が被害に遭った後どんな人生を送ってきたのか、どれだけセカンドレイプで傷ついてきたのかを知らないのです。もっと社会が被害者のことばに耳を傾け、被害者の実態を知るということが、いまの日本社会や強いて言うと加害者臨床の中にも不足しています」
加害を少しでも生まないためにどうしたらいいのか。斉藤さんは、社会に生きる私たち1人1人が傍観者にならないことが必要だと言います。
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斉藤章佳さん
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「性犯罪には被害者と加害者がいますが、それ以外の第3者といわれるサイレントマジョリティが当事者性をもっと持つ必要があると思います。自分ももしかしたら加害者や被害者になるかもしれないという前提で性暴力の問題を考えていく必要があります。例えば、痴漢に関しては全体の1割の人しか被害届を出しておらず、9割は泣き寝入り、潜在的な被害者がたくさんいるという事実があります。そういうことを自分自身にも引き寄せて当事者性を持つこと、この意識を普遍化させていく必要があります。声を上げないことで得するのは他でもない加害者なんです。性暴力を見て見ぬふりをするということは、加害者の加害行為に間接的に加担しているということに気づく必要があります。いまの日本は、この意識が非常に低いと思います。こういうことがスタンダードになっていけば、誰も加害者にも被害者にもしない社会につながっていくと思います」

取材を通して
加害者に対して絶望に近い感情も生まれましたが、一つだけ共感した部分もありました。
それは、私が会った加害者たちは、少なくとも日々性暴力について考え、治療を受けることでみずからの加害者性を自覚し、誤った価値観を変えよう、加害者としての自分を変えようと努力しようとしていたということです。これだけでも少し救われたような気がしました。
なぜなら、被害者に対し批判的なことばやまなざしを向け、それを誤っているとも自覚せず、変わろうともしない社会の偏見がまだまだ存在するからです。性暴力の実態を伝える報道が以前よりは増えてきていますし、少しずつ正しい理解も広がってはいると思いますが、いまだに「被害ってそんなにあるの」「ただ触ったことぐらいで大げさ」「ハニートラップじゃないの」といったことばを聞くことがあります。反論すればするほどむきになって批判してくる人もいます。
被害者に偏見を向けることで最も得をするのは加害者です。それは加害者を守ることと同じではないでしょうか。加害者とこの社会は地続きだと私は感じました。社会にある加害者性をまず自覚し、当事者性を持って変えていこうとすること、加害者を許さないということを当たり前にしていくこと、それが、加害が生まれにくい社会につながっていくのではないかと思います。
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