「幻の唄」を探し求めて 沖永良部島に移住した男性の思い
- 2023年09月25日
島の人たちの暮らしの中で生まれた「沖永良部民謡」。先祖の供養や祝いの席などで300年以上、歌い継がれてきました。一方で、歌い手が少なくなり、人々の記憶から消えた“幻の唄”があります。ある思いを胸に、その唄を探し求める男性を取材しました。
鹿児島局記者 平田瑞季
島に移住 きっかけは師匠との出会い
沖永良部島で三味線教室を開いている波多野雅也さん(28歳)。沖永良部民謡に魅せられ、去年、関西から島に移住しました。
島の昔の人が感じてきた風景や思いが込められた独特な民謡が、沖永良部民謡です。
波多野さんが移住したきっかけはある出会いがありました。関西での学生時代、弟子入りした三味線教室で歌い続けていたのが沖永良部島出身の人たちでした。
戦後、豊かさを求めて関西に集団就職した島の若者たち。彼らは、故郷を遠く離れても“島の心”を歌い継いでいました。一方、島では人口の減少とともに歌い手が減り、日常から唄が失われていきました。
“次の世代に歌を残せなかった”
波多野さんは師匠の無念の思いに心を揺さぶられたと言います。
師匠が当たり前のように日常で残していた唄が、故郷の沖永良部島では日常ではなくなっていました。“島で後継者をつくれなかった”という言葉がずっと引っかかっていました。葛藤や不安のほうがたくさんありましたが、ことあるごとにその言葉が思い出されて、悩むくらいなら移住しようと思いました。
島に移住後、師匠に教わった唄を多くの人たちに伝えている波多野さん。そんな姿を島の人たちも見守っています。三味線教室が開かれたこの日、たまたま公民館を訪れた島の人たちが波多野さんの奏でる音色にあわせて、自然と口ずさんでいました。
父親が三味線を弾いていたので、昔からずっと聴いていた歌が流れてきて、自然と口ずさみました。子どもたちも三味線を覚えてくれ、私も踊りを一緒にするようになってすごく幸せです。
託された“幻の唄”
波多野さんには師匠から託された特別な唄があります。
亡くなった人との最期の別れ「33回忌」にあわせ、かつて歌われていたとされる「上平川のみやらび」。今では、島の人たちの記憶から消えた“幻の唄”です。口伝えで教わっただけの唄。記録に残すため、波多野さんは師匠が収録した音源も参考にしながら譜面に起こしていきます。
自分が弾けたうえで譜面を書いていきます。あくまで最終手段なので、譜面を使わずに伝承できればいいんですけどね。
一方で、歌詞は昔の方言が使われ、師匠でさえ、その意味は分からなかったと言います。
波多野さんはその意味を読み解こうと、郷土史の専門家、先田光演さんを訪ねました。
“みやらびぬ_すでぃふりよ”って「袖を振る」でしょ。“それを見なさい”、“見たらとても美しいですね”って。“でぃくわ”というのは、“さあ、それでは”ということですね。“じゃあ、それでは、行きましょう”、“踊りましょう”ってことだね。
わからない部分はまだあるものの、少しずつ歌詞に込められた意味が見えてきました。
僕は島ムニ(方言)を話せないので、どうしても視点が狭くなってしまうのですが、生田先生の今までの人生経験から広い視点で見ていただいて、新しい気づきがありました。
師匠から受け継いだ“幻の唄”。先週、初めて子供たちの前で披露しました。
音色がめちゃくちゃかっこよかったです。
島にいても三味線に触れる機会がなく、島の人以上に三味線が弾けて、かっこいいなって純粋に思いました。これから積極的にそういう機会に触れたいです。
唄やメロディーもそうですが、歌詞には特に先人の思いや教訓などが詰まっていて、なくしてしまうと、沖永良部島の子どもたちのアイデンティティーがなくなってしまうくらい大事なものだと考えています。私はあくまで“中継ぎ”です。これからの世代に、島の民謡や三味線をつないでいけるような活動をしていきたいです。
師匠の生まれ育った沖永良部島で、波多野さんはきょうも“幻の唄”を歌います。