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北海道南西沖地震から30年 語り部を続ける元消防士

  • 2023年7月10日

「津波から逃げた経験を伝えるために助けられた命」と語る三浦浩さん。
死者・行方不明者が230人にのぼった北海道南西沖地震の最大の被災地である、北海道南部の奥尻島。早いところでわずか3分で津波が押し寄せました。
津波の水しぶきを浴びながら、間一髪高台に逃げた三浦さんは30年間みずからの経験を語り継いでいます。 (取材:NHK函館放送局 奈須由樹) 

北海道南西沖地震とは

30年前の平成5年7月12日午後10時17分。北海道南部の沖合の日本海で、マグニチュード7.8を観測しました。奥尻島には地震が起きてから早いところでわずか3分後に津波が押し寄せ、20メートル以上の高さにまで達しました。地震や津波などによる死者と行方不明者は230人。奥尻島は最大の被災地となり、津波以外にも土砂崩れや火災が発生して198人が犠牲になりました。

紙芝居で語り部の活動を行う三浦浩さん

南西沖地震の語り部活動を行っている三浦浩さん(45歳)です。三浦さんは高校1年生(15歳)の時に被災しました。奥尻島の最大の被災地である青苗地区に祖父母と住んでいました。青苗地区は海岸までわずか100メートルほどの地域です。

30年前の経験を三浦さんに聞きました。

三浦さん
「あれは月曜日でした。夜の10時17分に1分半ぐらい揺れて、停電しました。下にいるおじいさんとおばあさんが心配だったので、『大丈夫か』って声かけたら、おばあさんから『大丈夫だ』と声が返ってきました。ただ、心配だったので揺れが収まらないうちに、はうように1階に下りたらおじいさんがタンスの下敷きになっていました。僕はすぐに火事場の馬鹿力でタンスをよけました。そしておじいさんとおばあさんと懐中電灯1つ持って外に出ました。すると沖の方から”ゴー”と音が来ていたのでおじいさんおんぶして、おばあさんの手を引いて高台を目指しました」

着の身着のまま、はだしのパンツ姿で高台に逃げた三浦さん。高台にさしかかって5歩か6歩進んだとき、津波の水しぶきがかかったといいます。”もうだめなのか”と頭をよぎったそうですが、ここで死ぬわけにはいかないと。おじいさんおばあさんを守るんだと、なんとか高台に逃げたそうです。高台にあがったとき、足にはガラスの破片がささり傷だらけで血まみれでした。高台には多くの人が避難していて、振り返ると家も車も電柱も根こそぎ持って行かれていました。家がバキバキ、バリバリと流されていく音がしました。間一髪で津波から逃れた三浦さん。あのときもし服を着ていたら。1歩遅ければ津波にのみ込まれていたかも知れません。

最初は思い出したくなかった

当時高校1年生の三浦さんはこの津波で多くの友人をなくしました。そしてあと1歩遅れていては自分の命もありませんでした。今は語り部活動を行っている三浦さんですが、当時はこの経験を思い出したくなかったと振り返ります。そして三浦さんは高校卒業後、”災害から奥尻の人たちを守る仕事につきたい”と消防士になりました。

奥尻島で消防士になった三浦さんがNHKのインタビューに答えていました。

三浦さん
「あの震災がなければ別の職業に就いていたかもしれない。
 地震のとき、多くの人たちの命を奪った火災が目に焼きついている。
 消防士になって火災から島の人たちを守りたい。人の命にかかわる仕事なのでやりがいを感じている」

相次ぐ災害と三浦さんの後悔

北海道南西沖地震のあとも災害が相次ぎました。

2011年に起きた東日本大震災が三浦さんの考えを変えます。避難まで十分な時間があったにもかかわらず、津波に巻き込まれて犠牲になった人がいたという話を聞いたからです。この話を聞いた三浦さんは大きな後悔があったと話します。

三浦さん
「避難時間があったのに避難していなかった。私が3分ほどで津波から逃れた経験を少しでも伝えていれば助かる命があったんではないかって思いました。ただ、当時は消防士をしていたのでこれでは伝えられなかったです」

すべてを手放して伝える

東日本大震災の経験を聞いて、消防士をしていたのでは伝えられないと辞めることを決意しました。「伝えていくことは俺にしか出来ない。これからは俺が伝える」と。

奥尻島で語り部活動を本格化させた三浦さんでしたが、離島という環境に課題を感じていました。島外で講演依頼をされたとき、天候がよくなく飛行機やフェリーが欠航しました。せっかく消防士を辞めて伝えられるのに、講演が延期になったり中止になったりすることにもどかしさを感じていました。3歳から35年間住んだ奥尻島。青く澄み渡った海に寄せて返す波が響く。大好きだった奥尻島。しかし、伝えられる範囲が狭いと決意し、移住を決めました。これからはすべてを手放しても伝える。大きな決意を持って語り部活動を始めます。

みずからの経験を語りつぐため、三浦さんは自作の紙芝居を作りました。絵にして視覚に訴え、より伝わるようにするためです。紙芝居は全部で16枚で構成されています。わずか3分で押し寄せた津波から逃げた経験を元に作られていて、この紙芝居は『あの坂へいそげ』と名付けられました。

移住して語り部活動に専念する三浦さん。去年は語り部活動を行いながら全国をめぐりました。九州の鹿児島や四国、本州など全国各地を車中泊しながら周りました。車の走行距離は29万キロを超えています。

30年の節目を前に奥尻に帰省

北海道南西沖地震から30年となる節目の年に奥尻島に帰省した三浦さん。三浦さんの命を助けた坂道は今と変わらず残っています。

生死を分けた1本の坂道。三浦さんは当時のことを思い出しながらゴミを拾いました。

三浦さん
「私がこの坂道を駆け上がったときは、真っ暗で何が落ちているか分かりませんでした。ふだんから道を点検して何か落ちてないかよけておくことは避難の助けになります。
その繰り返しがいざというときに命を守るきっかけになるのです」

いつ起こるか分からない災害。起きたときに避難路が塞がれていれば意味をなしません。
日頃から避難路をきれいに保っておく意識が、いざというときに多くの人の命を守ります。

津波を知らない世代に語り部活動

奥尻島には「賽の河原まつり」という祭りがあります。海難事故の死者などを供養するために行われていて、震災以降は津波犠牲者の霊を慰める意味合いが加わりました。島北端の霊場「賽の河原」周辺で毎年行われ、新型コロナで中止が続いていましたが、ことしは4年ぶりの開催となりました。ここで設けられたステージで、三浦さんは震災を知らない奥尻高校の生徒にみずからの経験を語りました。

三浦さん
「ここで津波に流されてしまうと思って、自分の命は終わったと思ったんです。でもその反面の心があって、ここで死んでたまるかって、おじいさんとおばあさんを絶対守るんだって流されても諦めないぞって気持ちで、僕はただただこの灯台目指して駆け上がりました」

震災を知らない世代、そして経験をしていない人にどのように伝えていくか。三浦さんが意識していることがあります。それは”伝わるように伝える”ということです。震災があったという事実だけでは伝わらない。経験したことのない人に自分事として考えて欲しい。そんな思いから当時を鮮明に思い出すと、目から涙があふれました。

三浦さんの気迫のこもった語り部活動を見ていた高校生は。

奥尻高校3年生
「奥尻島の津波については本を読んで自分のこととして考えていたつもりでしたが、当事者の声を聞いてさらに実感できました。これから防災に努めていきたいと思います」

奥尻高校2年生
「私は災害に対する意識がすごく低かったので今回の話を聞いて命の大切さについて学びました。周りの人を守れるようにしようと思いました」

北海道南西沖地震30年を振り返って

「私は本当は死んでいました。生きていたのは津波から逃げた経験を伝えるためで、助けられた命なんです」と語る三浦さん。北海道南西沖地震から30年がたち、震災を知らない世代も増えています。わずか3分で津波が押し寄せ、助かった経験。地震が起きたら「ただちに」高台に逃げないと危険だ、という教訓を風化させないためには、伝え続けることが不可欠だと三浦さんは考えています。三浦さんの今後の活動について聞きました。

「次の瞬間、命がないときに何をやるかって考えたら、自分にしかできない30年前のあの夏の地震、津波の経験を伝えることだと思います。これは三浦浩にしかできないことです。100歳まで生きれば、あと半世紀も語り継ぐことができる。自分はこの経験を伝えるために生かされた命なので、最後の一呼吸まで自分が生きている限り、伝え続けます」

取材後記

私は記者になって3年目ですが、震災を経験したことがありません。1993年7月。北海道南西沖地震は私が生まれる前の震災です。三浦さんがこの30年間、私の人生よりも長い時間、みずからの経験をどのような思いで語り続けていたのかお話を聞きたいと思い、取材を始めました。震災を知らない世代に自分事として感じてほしいと語り、涙を流しながら熱く語る三浦さんの姿は、私の胸に強く響きました。災害は今後、必ず起きます。奥尻島の記憶、そして三浦さんの3分の教訓を風化させず、1人でも多くの方に共感して頂ければと思っています。

北海道南西沖地震から30年

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