クロ現+
2021年3月13日

わたし×支援団体の代表【前編】

中学3年生のとき、東日本大震災で母親を亡くした阿部和好さん。震災で親を亡くした子どもたちの進学支援を行っている団体の奨学金を利用し、東京の大学に入学しました。その団体「みちのく未来基金」の代表理事が長沼孝義さんです。

阿部さんにとってこの団体は大切な居場所であり、長沼さんは何でも相談できる人生の先輩として大切な存在です。阿部さんが大学を卒業した後も、団体が主催するイベントや、“みちのく生”(※奨学金の支援を受けた学生たちの通称)が集まる場を通じて、交流を続けてきました。あの日のことや、仲間たちのことなど、ふたりの会話は2時間以上途切れることはありませんでした。

阿部 和好さん(25)
宮城県女川町で中学3年生のときに被災。母親が津波に巻き込まれて亡くなった。 石巻市の高校に通い、いったんは卒業後就職することも考えたが、みちのく未来基金の 支援を受け東京の大学に進学。いまは都内の不動産会社に勤めている。

長沼 孝義さん(70) - みちのく未来基金 代表理事
大手菓子メーカーの副社長だった2011年秋に、大手企業3社の協力を得て、みちのく未来基金を設立。きっかけは新聞で親を亡くした高校生の写真を見たことだった。以来、900人以上が基金を利用して大学や専門学校などに進学した。

この対話の内容
- 対話前夜に震度6 ・・・10年前の“あの日”を振り返る
- 社会人になった今 地元・女川町への思い
- 大学時代は“気を遣った”
- 震災10年 誰のための“10年目の節目”? 

対話前夜に震度6・・・10年前の“あの日”を振り返る
阿部さんと長沼さんが対話したのは、2月14日。ちょうどその前日の夜、福島県と宮城県で最大震度6強の地震が発生しました。半年ぶりの再会は、あいさつもそこそこに前夜の地震の話から始まり、話題は10年前にさかのぼりました。

対話の動画が再生されます(音声が出ます)
対話は遮へい板などを用いて感染対策をした上で行いました

長沼:向こう(東北地方)の“みちのく生(※みちのく未来基金の支援を受けた学生たち)”のOBにすぐ連絡してさ。

阿部:家、大丈夫でした?

長沼:うん。みんな大丈夫。▲▲▲(※個人名)の家の中は結構倒れたらしい。

阿部:仙台の中のほうに行けば行くほど、結構やばかったみたいな。 私の家族も無事でよかったんですけど。女川町はそんなに家の被害はなかったらしいですが、沿岸部はちょっとひび割れしていましたね。

長沼:ぶっちゃけた話だけどさ、和好はさ、もう全然フラッシュバックはない?

阿部:あんまりないですね。でも、こっち(東京)が揺れる前に、あっち(東北)がすごく揺れていたんで、これはやばいんじゃないかなって正直思ったんですけど。当時を思い出してどうだっていうのは、特段なくて。これだけ大きいから「津波やばいかな」とかと思いはしましたけど、すぐ父親とも電話して。震源が60キロで深いから「津波は大丈夫だろう」と。それで一瞬安心はしたんですけどね。余震がちょっとまた怖いですけど。(地震が起きた)時間帯が最悪でしたよね。夜11時過ぎぐらいでしたもんね。

長沼:そろそろ寝ようかっていう感じだからね。

阿部:本当に、今回幸い津波来なかったですけど、これで津波が・・・ってなったら大変でしたよね。

長沼:あの時だって中学校にいたんだろう?10年前は。

阿部:10年前は卒業式の前日で式の練習して、帰って、友達の家で。

長沼:あ、帰ったんだ。

阿部:そうです。その時は友達の家で明日の卒業式の話をしたりとか、ワチャワチャしていた中で地震が来たので、幸い1人じゃなかったのがよかったかもしれないですね。

長沼:それで逃げろーって話になった。どこに逃げたの?上?

阿部:本来であれば学校が上のほうにあるので、そこに行けばよかったんですけど、友達3人でいて。 1人がちょっと彼女のところに行くと言って。で、私も1人でいるのは寂しかったから一緒に行って。たまたま上のほうに行っていた時に、同級生のお母さんと合流して、そこから翌日、翌々日と女川高校のグラウンドで。

長沼:高校のグラウンドか。

阿部:雪が降ってきたもんで、車の中で・・・

長沼:過ごしたんだ。

阿部:あとは(女川原子力発電所の)体育館で。半月ぐらいはみんな集まっていたと思いますね。

長沼:ええ?半月もいたの?あの辺に。

阿部:そうですね。段ボールで区切られた避難所で寝泊まりして。2週間ぐらい風呂入れなかったですけど。

長沼:そうだよな。卒業式どうしたの?

阿部:3月中だったんですけど、私がまだ体育館にいる時のうちにやったのかな。卒業式というか集まって。

長沼:式にはならないもんな。

阿部:“卒業式もどき”みたいなのやって、みんな着のみ着のままでやった記憶ありますけどね。

社会人になった今 地元・女川町への思い

阿部 和好さん

長沼:石巻線が開通した後にさ、俺、女川に行ったんだよ。

阿部:結構遠いですよね。

長沼:車ではね、何度か女川に行ったんだけど、電車を使ったことがなかったから。いっぺん電車で、女川から石巻に行ってみたいって。「和好たちは多分これに乗って毎日学校に通っていたんだろうな」っていうのを妙に感じたくてさ。遠いんだよな、結構な。

阿部:遠いですよ。

長沼:和好は女川に帰ることはない?

阿部:そうですね。今のところ社会人をやって・・・大きな転機がない限りは無いかなと思うんですけどね。

長沼:向こうに兄ちゃんはいるの?

阿部:いま、兄2人は石巻に住んでいて、父親と同じ会社で働いています。女川町には住んでないですけど、その付近で働いてはいます。父親含めて今後、女川に帰る選択肢は、あまり可能性は高くないですね。高校の同級生で、女川に戻って親の仕事を継ぐ子は1人いますけど、基本的にはあまり今はいないですかね。悲しい話ではあるんですけれど。

長沼:この春でもう4年目だろ?社会人。

阿部:そうなんですよ。恐ろしいことに。

長沼:丸3年だよ。続いてんな、お前な。

阿部:いろいろありましたけどなんとかやってますね。

長沼:丸3年っていうと、社会人経験者で言うとさ、ちょっと一人前だよね。会社的にはね。

阿部:ちゃんとしてほしいと思われているかもしれないですね。私は小さい町出身だからかわからないですけど、あんまり変わるのが好きじゃないみたいですね。

長沼:そうなんだ。

阿部:自分から変わろうとしないというのは悪いところもあるかもしれないですけど。

長沼:でも、もともと別にそういうわけじゃないでしょ?

阿部:自分の今までの生きた経歴みると、そのまま流れに沿って生きてきた感じはあります。

長沼:東京に出てきたのは相当な勇気やん?

阿部:あれも先生に言われたんで。一番大きかったのが、高校終わってすぐ働くというイメージが漠然とあったんですよね。

長沼:あったんだ。やっぱり。

阿部:父親ともそういう話だったんですけど、もう1人の友人とゲームのように高校のテストで競っていて、たまたま成績が良くて。先生に「こういう選択肢もあるぞ、大学入ったほうがこれぐらい広がるよ」みたいなこと言われていて。で、親を説得するにしても「お金はどうするんだ」という話もあって。

長沼:「みちのく未来基金」のことは学校の先生から聞いたの?

阿部:そうですね。学校の手続きを担当してくださった先生が「こういった基金があるんだけど」って話があって、私として父親を説得できる材料ができましたね。

大学時代は“気を遣った”
阿部さんは、「みちのく未来基金」の奨学金を利用して東京の大学に進学しました。同じように東京に出てきた“みちのく生”が打ち明けた悩みが、長沼さんの印象に残っているといいます。

対話の動画が再生されます(音声が出ます)

長沼:▲▲▲(※個人名)はお母さんを亡くしているんだけど、話を聞いたら、「長沼さん、東京の学校行ったら、『どこから来たの?』って聞かれるじゃない。私、石巻って絶対言わない」って。「仙台から来た」と答えていた。震災の記憶がまだ東京でもある時だったから、「仙台は大丈夫だったの?」と聞かれても、「まあ仙台は少し離れていたから大丈夫だったの」っていう話で打ち切るようにしたって。

阿部:その気持ちは、すごくわかります。

長沼:その子は「だから私ね、お母さんは死んでないことにしていたという言い方した」って。

阿部:そうですね。多分、“みちのく生”で東京に来た子は大体その言い方になっていると思いますね。

長沼:そうだよね。

阿部:根掘り葉掘り聞かれて、その場の空気が悪くなる。ちょっと悲しい空気になっちゃうので難しいんですよね。震災の話をするのは。

長沼:ある人は「どこから来たの」って言われて、「釜石」って言った瞬間に相手の顔が変わることがあったって。

阿部:わかります。

長沼:「顔が変わってその人、私にすごく気を遣い始めるんだ」って。もうひしひしと感じる。そうすると「今度私がその人に対して、今度は『そんな気にしなくていいのよ』って気を遣う。気を遣われる、気を遣うっていうのはもう空気で分かる、それが嫌だ、だから言わない」って。

阿部:その通りですね。間違いないです。

長沼:それはよく分かるよね。

阿部:多分その言葉が来た段階で頭の中でシミュレーションできますね。「ああ、こうなるな」と。私も東京に来て、その話はあまりしなかったかもしれないですね。できるようになったのは大学3年生のとき。できるようになったというか、その話をするようになったのは気心知れてから。

長沼:よっぽど気心知れた友達。

阿部:になってからですよね、そういった話をするのは。大学1、2年生の時は言わない。本当に深く聞かれれば言いますけど、普通の話の流れで聞かれているのであれば、「宮城だよ、仙台だよ」で終わりにしていましたね。

長沼:そうだよね。宮城・仙台が無難だからね。

阿部:無難ですね。石巻とか言うと…

長沼:ややこしくなるもんね。

阿部:もう100%の確率で「震災大丈夫だったの?」って。それは社会人になっても聞かれますね。社会人になってから別にそんなに気にしなくなったので。会社の規模も、支店自体大きくなかったので、「石巻です」「震災大丈夫だったの」「いや大丈夫じゃないです」みたいな話はできるようになりましたけど、学生時代はそこの距離感とかが難しいですよね。

長沼:難しいよね。

阿部:今後一緒にやっていく友達の中での空気感が難しくなるのと気を遣われる、気を遣う。それが多分本当に大変だったと思いますね。

長沼:その「気を遣う」「気を遣われる」っていう言い方がものすごく合っているというか、そうだよねって感じる。

阿部:会話がテンポを失いますからね。本当に。

震災10年 誰のための“節目”?

「みちのく未来基金」代表理事 長沼孝義さん

長沼:話変わるけど、ここ2週間でメディアとかいろいろ問い合わせがあってさ。

阿部:(3月11日が)近くなってきたからですね、きっと。

長沼:企画書とかに必ず“節目の10年”って書いてあるわけよ。それが俺、腹立ってさ。「節目って言っているのお前らだろう」と。“みちのく生”と付き合っていて、8年も9年も10年も何にもないわけでさ。勝手にね、節目って要するに区切りでしょ?

阿部:なんの区切りなんだって。

長沼:そうそう。それがさ、必ずいつも企画書にあるわけよ。腹立ってきてさ。お前らが区切ってんだろうみたいな。

阿部:メディアで、伝えやすいんですかね、10年。キリがいいからは絶対あると思いますよ。

長沼:キリないでしょ。何も。

阿部:私はないですけどね。数字的なキリだと思いますよ。

長沼:二十歳の成人式は区切りあったけどな。あれは節目かもしれないけど。

阿部:人生的なところでいうと大事なところですけど、震災から10年って言われてもなんか変わるわけじゃないですからね。

長沼:“みちのく生”は、みんなそう。この間もちょっと会うことあったけど、やっぱりその話になってさ、「誰が勝手に決めるんだ」ってすごく怒っていたよ。七回忌と十三回忌ならまだ分かるでしょ。

阿部:わかります。それとは全く違いましたもんね。10年だからうんたらかんたらって話じゃないと思いますけどね。

長沼:それでまた20年目になるとまた節目っていうんだろう。でも12年目には言わないよな。

阿部:言わないです。13、14、15・・・15も多分言わないですよね。

長沼:言わないな。

阿部:毎年この時期になるとあったのが、ただ形式変えて10年目になっただけっていう認識なんですかね。わかんないですけどね。

長沼:「みちのく」の活動をやっていなかったり、お前たちと全然接することもなかったり過ごしてきたら、何の抵抗もなくそれを受け入れられていた思いもある。だけどひょんなことから、みんなと接することがあって、いろいろなことを考えるようになって。本当に節目が何の意味も持たないっていうのが、自分として納得できる。そういう感覚になってきたんだよね、不思議なもんでね。

阿部:私たちからしたら、普通どおりの1年と変わらないものですからね。3年目4年目5年目10年目、多分自分たちとしては変わってないですけど周りから見られる目が変わってるだけだと思うんですよね。

長沼:そうだよね。

対話は後編へ続きます
後編の内容は…
- “みちのく生”の間でも、震災の記憶やとらえ方に世代間のギャップが…
- 「震災がなければあったはずの幸せ」と「震災があったからこそ今ある幸せ」の矛盾感 


<あわせて読みたい>
わたし×NHKのディレクター
わたし×中学時代の先生


「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見てあなたが感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。


「私も誰かに話してみたいことがある」と思った方、こちらから声をお寄せください。


トップページに戻る