50年前の沖縄にタイムトラベル 本土復帰“歴史への旅”
アメリカ統治下にあった沖縄が本土に復帰してちょうど50年。NHKでは歴史資料や取材を元に、当時の街の様子をVR(バーチャル)空間に再現しました。そこへ全国各地から集まった7人の若者が“タイムトラベル"。オンラインを通じて体験した沖縄の歴史は、若者たちにとって「驚き」の連続でした。1972年の沖縄に何があったのか?人々はどんな思いで本土復帰を迎えたのか?45分拡大版でお伝えしました。
出演者
- ゴリさん (ガレッジセール)
- 森本 慎太郎さん (SixTONES)
- 玉城 ティナさん (俳優)
- 新城 和博さん (編集者)
- 桑子 真帆 (キャスター)
※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。
アメリカ統治下の沖縄に上陸!
最新技術を駆使したスペシャルな旅のガイドをするのは、沖縄を愛するガレッジセールのゴリさん。
個性豊かな7人の若者たちがアバターとなって、全国からリモート参加で旅に出発。
タイムトラベラーたちが到着したのは、沖縄の玄関口である那覇港。東京から直行のフェリーがあり、船での移動も一般的でした。
「これが復帰前の沖縄か。ちなみにみんなパスポートは持ってるよね?ナナちゃん、何でパスポートは必要だと思う?」
「離島だからじゃないですか?」
「予想をはるかに超えてきたね。この理由分かる人、あさとくん説明して」
「当時の沖縄がアメリカだから?」
「そうですね。アメリカに統治されていたので、入るにはパスポート(総理府発行の身分証明書)が要るんですね。
さあ皆さん、ここでクイズです。今、港を通ったトラックあるよね。沖縄の本土復帰に欠かせない、あるものを運んでます。さあ何を運んでるでしょうか?」
「紅いものタルト」
「いや~復帰前、出来てないね」
「愛の心」
「すてきだね。いい良心だね」
「日本の砂」
「砂。沖縄の方が砂あると思うな…。でも復帰前はね、沖縄の生徒たちは甲子園の土を沖縄に持って帰れないということで、フェリーの上から海の中に捨てられたんだよね。そういう時代がありました」
沖縄勢初、夏の全国高校野球大会に出場も検疫のため甲子園球場の土を持ち帰れず
「さあヒント、『生活に不可欠』、『復帰当日から使える』。正解はこちら。日本のお金、日本円です」
「沖縄に運ばれたお金の量、コンテナで161個。金額にして540億円になります。アメリカ統治下ではドルを使っていましたが、復帰の日を境に円が使われることになったんですよね。もう両替などで市民は大混乱だったそうです。
さあみんなが乗るバスがそろそろやって来たね。じゃあみんな、乗って乗って」
「次の目的地は、那覇市の中心部、当時の沖縄の人の心を象徴する場所です。さあ、りっかりっか(さあ行こう)。乗った乗った」
沖縄 本土復帰から50年
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
ことしは節目の年ですが、今沖縄の空気感どのような感じですか?
新城 和博さん (編集者)
沖縄出身の編集者 本土復帰に詳しい
新城さん:
やっぱり世界的にどこも大変なことがあるので、「お祝い」というよりも、緊張感を持って、どうなるんだろうという気持ちで復帰を眺めてるような気がします。
桑子:
緊張感。
新城さん:
毎年復帰の日って来るじゃないですか。でも今回は特にピリッとしているような気がします。
戦後復興の先駆けとなった市場探訪
タイムトラベラーたちが旅する、当時の沖縄、那覇市。
中心部の国際通りには外国製のかばんや時計など、高級品を取り扱うお店が立ち並び、戦争からの復興ぶりは奇跡と呼ばれました。
太平洋戦争の末期、本土防衛の最前線とされ、激しい地上戦が行われた沖縄。焼け野原となった那覇の中心部はアメリカ軍に占領されました。
そうした中、いち早く市民に開放され復興のはじまりとなった場所があります。ここが最初の目的地です。
「さあ着きましたよ。那覇市は農連市場です。沖縄の人の心や生活が詰まった場所なんですね。ちなみに地元の人々、うちなーんちゅ(沖縄の人)は『まちぐゎー(市場)』と呼びます。じゃあ、ちょっと中入ろっか」
「この市場には、当時の沖縄をよりよく知るためのアイテムがた~くさんあるんで、自由に見て回って、気になるもの見つけたら私を呼んでください」
「ゴリさんゴリさん、私の目の前に茶色っぽい丸があるんですけど、これはなんですか」
「これ、とうがんです。沖縄の方言では、『しぶい(とうがん)』っていいまして。大根みたいな感じ、煮込んだら。でも大根よりも食感はすごくやわらかくて、やさしい甘みがあって、沖縄の人は今でもよく食べます」
「ゴリさん!ここに謎の缶が置いてあります」
「ゆうやくん、超見つけてほしかったやつです。これは、伝説の食べ物ですね」
「Cレーション」と呼ばれていた、この缶詰。アメリカ兵が戦場などで食べていた携帯食です。軍から放出されたものが、この市場でも売られていました。
「見てのとおり、中身が分からない缶詰ですよね。今で言う、カプセル入りおもちゃ、当時子どもに人気だったんです。じゃあ、どれから開けていく?」
「右でお願いします!」
「さあ、何が出るかな?」
「これはクラッカーですね。復帰後もこれは手に入ったので食べたことありますが、口の中の唾を全部奪っていきます。パサパサになります、喉が」
ほかにもチーズや洋梨、ハンバーグなど、中身は10種類以上。レアな商品としてひそかな人気を誇っていました。
「ゴリさん、ゴリさん。すごい、牛乳あるんですけど」
「これ珍しいのは、内容量なんだよね。946ミリリットルっていう、すごい中途半端な量なんだよね」
「キリ悪すぎて、嫌です」
「でしょう。でもこれは何でかっていうと、当時はアメリカの統治下でしょ。アメリカでは1クオートっていう単位を使っていたから、クオートをミリリットルに直すと、946ミリリットルなのよ」
「今でもですか?」
「今でもです。だからって、沖縄来たときに損だなって思わないでね」
「ゴリさん!あいらです。ここに『日本復帰をすれば米のねだんが二倍半になる』って」
市民の間では、本土復帰を巡ってさまざまな噂が飛び交っていました。
新城さん:
日本になるということで、物価が上昇するんじゃないかという話がありまして。便乗値上げもあったけれど、そういうのも出たというのを聞いたことあります。庶民の間では噂、動揺が広がっていた。
「きょうは、『まちぐゎー(市場)』をより深く知るための案内人に来ていただいてます」
「50年前の沖縄へ、ようこそ。ゴリさん、素晴らしいガイドです」
市場の近くで生まれ育った、崎山律子さんです。
「私はOLをしていたんですけど、農連市場にくるのはとてもうれしい。おばちゃんたちが、しーぶん(おまけ)、いっぱいくれるんですよ。おまけがいっぱいあるのが、農連市場の特徴でもあります」
ここでクイズ。この市場で働く人には、ある共通点が。それは何でしょう。
「何か気づいたことありませんか?あれ?と思うこと」
「えー、何だろう…」
「登場人物を見て。おじさんがいないと思わない?女の人が働いてる、そう思わない?あそこの人も、ここの人も、みんな、女の人たちですよ」
「ぱっと見て分かるように、女の人たちが多いですよね。圧倒的に、市場の主役は女の人。戦争で男の人たちが、ずいぶん亡くなりました。だから、人口の7割が女の人、残りの3割が男の人。戦後の復興も、こういう女性たちの肩に乗っかかっていたんですね」
「働いてる間は、誰が子どもの面倒をみていたんですか?」
「みんなで見ることができた地域で。同じ地域で、みんな同じように沖縄の戦争をくぐり抜けて生きてきた人たちなので、お互いに大切にしながら、助け合って生きていこうという気持ちがとても前に出ていたと思います。
沖縄戦を通して、みんなすごい大変な思いをしたわけです。県民の4人に1人が亡くなるんですよ。ほとんどの生き残った人たちは、沖縄戦の遺族。戦争はとてもむごい。今も実際、その戦争が起きているわけです。命が本当に無残に奪われる。そういう中を生き抜いてきた人たちなので、『命(ぬち)どぅ宝』という、昔から沖縄の中でとても大切にしていた言葉が、自分たちの心の芯になったと思います。
命より大切なものはない。あの戦の中を生き延びてきた一人ひとりが、言葉にしなくても体にしみついた哲学みたいなもの」
本土復帰に期待 その理由は?
本土復帰の日を心待ちにしていたという、崎山さん。そこには理由がありました。案内してくれたのは、すぐ近くの平和通り。アパレルショップなどが立ち並ぶ当時の沖縄の流行の発信地です。
「うちのおかあも、平和通りでベビー用品店を40年以上やっていましたね。さあ、皆さん、沖縄の人々が本土復帰を望んでいた理由の一つがあるんですが、それは、ある現象。どんな現象が起こると思います?」
「雨が降りそう」
「来た、『浸水』なんですよ」
「浸水も、沖縄の置かれた困難さを物語っているんですかね」
「戦後、アメリカの基地の建設が優先だったので、沖縄の人々の生活のインフラは後回しだったんですよね。ですから、この平和通りは台風とかになると洪水が起きて、浸水が起きる。母が平和通りでかばんを売っておりましたので、台風になると、まず品物を上に上げる。浸水に遭わないように。だけれども、洪水は物を飲み込んでいくんですね。ですから、たくさんの商品がわーっと流れていくんですよ、この洪水の中を」
新城さん:
米軍の方は、まず沖縄の島を管理するため、まず米軍基地を管理するのが目的なんです。その次の次ぐらいに住民のことみたいなのがあるので、だんだん基本的に生活と権利を守るために祖国復帰したいっていう気持ちにどんどん沖縄の人がまとまってきた。
「じゃあ、ここでちょっと崎山さんとはお別れですね」
「えー、寂しい」
「みなさん、よい旅を」
「沖縄のパーリーナイトが待ってますよ」
スタジオゲストが語る沖縄
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
森本さん、ご覧になっていかがでしたか?
森本 慎太郎さん (SixTONES)
趣味はダイビング 沖縄の海が大好き
森本さん:
今の景色からは想像つかないですよね。あれだけ浸水していたのかっていうところもそうですし、農連市場の環境も今と比べ物にならないなっていうの、ちょっと驚きが隠せないですよね。
玉城 ティナさん (俳優)
中学卒業まで地元沖縄で暮らした
玉城さん:
崎山さんがおっしゃっていた、女性がすごく力があってパワフルだっていうのは、今も続いている沖縄ならではの印象が私もあったので、沖縄戦で本当にたくさんの方が亡くなったっていうこともあるんですけど、沖縄の人は、「命が宝」であるっていうことを本当に念頭に置いて、毎日毎日、本当に懸命に生きていたんだろうなというのはすごい感じました。
桑子:
さあ、タイムトラベラーたちが次に向かうのは、中部の「コザ」です。伝説の人物と会うということなんですが、一体誰なんでしょうか。
基地で栄えた歓楽街 コザに潜入!
ネオンがきらめく、沖縄中部の歓楽街、コザです。
すぐ近くには極東最大のアメリカ空軍基地、「嘉手納基地」があります。ここは当時、ベトナム戦争を戦っていたアメリカ軍の出撃拠点。多くの兵士が戦地に飛び立ちました。
命の危険と背中合わせの身で、兵士たちが夜な夜な繰り出していたのがコザの街でした。
「さあ、皆さん見て、ネオンだらけです」
「ネオン、大好きなんですけど」
「クラブいっぱいあるんですけど、最高なんですけど」
「いやもう、これは大人の街ですよ。あさとくんは、どう?刺激強い?」
「強いですね。光り輝いて、夜でもこんな明るいんですね」
「ゆうちゃんは、こういう街、どう?緊張する?」
「でも、楽しそうです」
「本当?声のトーンが楽しそうに聞こえないのは、俺だけ?」
「みんな、バイブス上げていきましょ」
「なんか、もうナナの街みたいになってきたね。あれ?なんか光ってる。何だろう、あれ」
「お金ですか」
「そうです、あさとくん。これはお金なんです。なんで地面にこうやって落ちてるかといいますと、アメリカ兵は給料もらっても、今から向かうベトナムの戦争の場所では、お金は使わない。もしかしたら、明日死んでしまう命かもしれないということで、だからこそ、気前もいいから、ちょっと小銭がポッケから落ちようが、そんなのもう気にしない、拾わない、みたいな人が多かったの」
森本さん:
なんか、本当に日本じゃないみたいですよ。置いてある車もアメリカのものですし、沖縄の方がいたのかなっていうのを思うぐらい、本当、アメリカの街な感じがしちゃってますね。今。
「皆さん、集合してください。こちらのお店、人が並んでますね。夜遅くに沖縄の人が集まる店といえば?」
「居酒屋とかですか」
「あー、違いますねー」
玉城さん:
ああ、もう分かりました。「ステーキ屋」さん。
「正解でございます。本土で言うと、締めにラーメン食べる?みたいなことを言いますけれども、沖縄は、飲んだ後は締めのステーキ行く?というのが、今も文化として残っています。このお店、1日の売上70万円。県民一人当たりの年収の2倍近いお金を一晩で稼いだ日もあるぐらい人気だったということです」
更にこの街ならでは、コザならではのお店がありました。そのお店とは。
「翻訳屋さんです。基地関係の提出書類など、かたい翻訳も多かったんですけれども、意外に若い女性が駆け込むことも多かったんです」
当時よく翻訳されていたのが、「ラブレター」。沖縄の女性たちがアメリカ兵などに送っていました。あふれる思いを伝えたい。言葉の壁を越えた恋模様が、コザにはあったのです。
<スタジオトーク>
新城さん:
ラブロマンス的にも捉えられるけど、当時付き合ってたと思っていたら、いきなりいなくなって消息不明になるとか、あとシングルマザーになってしまった、どうしようということで、今でもそれはもちろんあって、沖縄県のほうでは国際結婚に対する相談の窓口もあるわけで。
桑子 真帆キャスター:
今にも続く現実でもあるわけですね。
本土復帰に対する"基地の街"の本音
基地と隣り合わせのコザの人々は、本土復帰をどう考えていたのか。一行は、とあるお店を訪ねました。
「おっ、音楽が聞こえてきましたね」
ここはアメリカ兵たちに特に人気のライブハウス。名物バンドの演奏で大盛況です。
「こちら、コザ生まれの伝説のドラマー、宮永英一さんです!よろしくお願いします」
「ウェルカム・トゥ・コザシティ、BCストリート!いらっしゃい」
伝説のロックバンド「紫」のドラマーだった宮永さん。沖縄の本土復帰後、日本のミュージックシーンを席けん。雑誌の人気ランキングで1位を獲得したこともあります。そんな宮永さんが腕を磨いたのが、ここコザなんです。
「今から50年前の沖縄で音楽活動をするっていうのは、どういう状況だったんですか」
「彼ら(米兵)は本国では本物を見てるし、ライブハウスに来る人たちは、みんな音楽をかじっている。ですから、中途半端な演奏がすぐバレちゃう。下手な英語でもバレちゃうし、すぐ瓶や灰皿が飛んできますね」
「危ない。あんな硬い、瓶や灰皿、投げてくるんですか」
「でもね、中身入ってない瓶だった」
アメリカ兵相手に命懸けのライブに明け暮れた、宮永さん。本土復帰について聞くと意外な答えが返ってきました。
「コザや基地の周りで商売してる人たちは、賛成の人はほとんどいなかったですね。大体反対。みんな仕事を失うっていうことですから。ドル(の価値)も下がってきたし、大変なことになる」
更に、祖国とされる日本そのものに対しても複雑な思いを抱いていました。
「第二次大戦を起こした原因というのは、沖縄が起こした戦争じゃない。これだけの犠牲が出て、しかも戦時中にスパイ扱い。うちのおばあちゃんも日本語がしゃべれない。スパイ扱いをされて、そういう目にも遭っているわけです。どこが祖国なの?疑問が湧いてくる。素直に喜べないような、そういうのはありましたね」
「うん?あれ?なんか騒がしいよ。何だろう。なんか、怒りの声にも近いね」
「ケンカですかね」
「大変だ、大変だ。あっちの空が赤くなってる。事件発生です!」
さかのぼること2年。沖縄の人たちがアメリカ軍関係者の車を襲い、次々に火を付けた「コザ暴動」が起きました。
きっかけは、アメリカ兵の運転する車が住民をはねた交通事故。差別的な扱いに抗議した民衆に対し、憲兵が威嚇発砲したのです。
当時、アメリカ兵などによる刑事事件は年間1,000件以上。しかしアメリカ統治下の沖縄では、彼らを裁く権利さえありませんでした。
酒を飲んだアメリカ兵の車に女性がひかれて亡くなったり、アメリカ軍のトラックに子供がはねられて亡くなったりする事故も起きていました。
「宮永さんは、ライブハウスからの帰り道にコザ暴動を目撃したと聞きましたが、アメリカ統治への考え方は変化してくるものなんでしょうか?」
「変化してきますよ。統治なんて本当はあるべきことではないですよね。僕らの先輩の親父が、米兵どうしのけんかの仲裁に入って殺された。レイプされた人たちもたくさん知ってますし。どんどん積もり積もってくると、やっぱり『このぉ』って思いますよ。人んちに土足で上がりこんできて、やりたい放題。絶対許さないぞという気持ちがね、出てましたよ」
「あれだけみんなが暴動起こしたのに、一つだけ救いを言えるとしたら、死者が1人も出なかったところかもしれないね」
「兵隊という個人ではなく、国というもの、体制に対する怒りだと思います。オーディエンス(観客)も、アメリカの兵隊しか当時はいなかった。彼らの本質がどんどん見えてくる。ベトナム戦争そのものも、どんどん旗色が悪くなってくる。 よく来てた人がひとり減り、ふたり減りしていく。音楽のリクエストも、だんだん変わってくるんですよ。あれやれ、これやれっていう命令形だった言葉が"Please play song for me"、俺のために、この曲をやってくれと。そういうふうに彼らがどんどん変わっていくのが、はっきり見える時代でしたね」
「貴重なお話ありがとうございました。宮永さんとは、ここでお別れになります。ありがとうございました」
「See you」
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
新城さんは、この宮永さんのお話を聞いてどのように感じましたか。
新城さん:
1人1人の人生は自分が主人公なのに、駒のように扱われて、駒のように出会ってて、自分たちが持ってる怒りというのは、怒りを出させる背後には、ものすごく大きな力が働いている。日本政府だったり、アメリカ政府だったりが決めて、ここに基地を置きましょうと言われたから。
しかも沖縄の人って、沖縄戦を体験した人にとっては、ベトナム戦争ってどこか沖縄戦と重なる部分があって。やはり基地があるからこそ戦争が起こるということで、そういうことも含めた上で復帰しようということで。ただ沖縄がよくなればいいってわけじゃなくて、その背後には戦争というものをやっぱりなくしたいじゃないですか。
桑子:
時空旅行の次のステージは、いよいよクライマックス、1972年5月15日、本土復帰の日です。そのときが、やってきました。
本土復帰 歴史的瞬間を目撃
「この日の沖縄は、雨でした。本土復帰と沖縄県の発足を祝う式典が行われている那覇市の市民会館です」
「どうですか、この立派なホール。ここは沖縄の人にとって、とっても身近な場所です。成人式するなら市民会館。東京でいう武道館みたいな存在でした」
壇上には、就任したばかりの屋良朝苗(やら・ちょうびょう)知事。沖縄の代表として、日本・アメリカ両政府に対して復帰を訴え続けてきました。この時のスピーチは、沖縄の人の思いを代弁したと語り継がれることになります。
「沖縄復帰の日は、疑いもなくここに到来いたしました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容を見ますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実であります」
「沖縄出身のはるなちゃん、どう思う?」
「沖縄が日本に返ってくるのに、何でうれしくないのかなと思う」
「多分何かがあるんだね。お、なんか聞こえてきたよ。市民会館の外の映像が入ってきました」
大雨に打たれながら抗議の声を上げる、およそ1万人の市民。復帰を祝う日のはずなのに、一体なぜ?
「その理由を教えてくれる詳しい人に来てもらっています。知事の側近、平良亀之助さんです。よろしくお願いします」
「平良さん、日本復帰、歓迎の式典だと思っていたのに、随分様子が違うんですが、その理由はなんでなんですか」
「屋良さんのお顔は、きつい顔をしているということでしたが、あのお顔は怒り半分、そして、これからどうなるんだという苦悩のお気持ち。そんな復帰だったらなんだというふうなことですね」
屋良知事と住民たちの怒りと苦悩。その理由のひとつとなる数字が。
「79%。沖縄が本土に復帰しても返還されなかった、アメリカ軍専用施設の面積の割合なんです」
本土復帰直前の沖縄。紫色の部分がアメリカ軍の専用施設です。これらの土地が返還されること、それが多くの住民たちの願いでした。
しかし、復帰の際に返還されたのは山間部の訓練場など、緑色の部分。主要な基地のほとんどは、そのまま残されたのです。
「私は当時、式典の広報班の責任者で、スタッフの1人だった。市民会館の2階の窓から、すぐその抗議大会が目の前で、ラウドスピーカーから演説が全部聞こえてくる。抗議大会の気持ちというものが伝わってくる。本来自分もあそこにいなければならんのにと思いながら見てると、目の、この辺が熱くなってね。涙も落としたことを記憶しております」
本土復帰50年 それぞれの思い
あれから50年。沖縄は大きく変わりました。
一部の基地の返還と跡地利用が進み、交通インフラも整備されました。さらに、沖縄を訪れる観光客は急増。年間1,000万人を超えるほどに。
その一方、基地と隣あわせの暮らしは続いています。アメリカ兵らによる事件・事故がやまず、基地のあり方が常に問われ続けてきました。
市街地の中心部にある普天間基地。26年前、日米両政府が返還に合意。その移設先とされたのは県内の辺野古沖でした。
沖縄県が反対する中で、海を埋め立てる工事が行われています。
「農連市場で出会った崎山さんと、コザで出会った宮永さんにも再び来てもらいました。今のお姿見せてもらっていいですか」
本土復帰をめぐる、様々な出来事を体感した若者たち。思いをぶつけます。
「50年前を振り返って、当時を生きる自分に伝えたいことあったら教えてほしいです」
「復帰して良かったと思うことはたくさんあります。まず生活のインフラがだんだん充実していった、インフラ(の改善)が進んでいったのは一面ありました。ただ、それ以上に沖縄の復帰の現実というのが、沖縄の人たちの思いに沿わなかったということは、ぜひ分かってほしいなと思います」
「いまの高校生、大学生、若者に何を考えてもらいたいか聞きたいです」
「歴史をしっかり学んでいただきたい。歴史というのは、いわゆる真実の基本だと思うんですよ。自分が真実をしっかり探し出す。歴史からものを学ぶことが、この未来を切り開くきっかけになるんじゃないかなと思いますね」
「なぜ沖縄だけに、ということを若い人たちが自分たちの問題として、5月15日にはそういう気持ちになって、特に若い人たちにお願いしたい」
「この時代から生きて、沖縄にいて、常に捨てなかった気持ちや誇りを聞きたい」
「沖縄戦を生き抜いてきた人たちに育てられたので、戦争はどんなことがあっても肯定するわけにはいかない。戦争のない島にしなければいけないというのは、どんな状態に置かれても変わることがありません」
本土復帰から50年 わたしたちが考えること
桑子 真帆キャスター:
新城さん、あらためてこうして現地の方の声も聞いて、若者の目線も見て、どんなことを感じていらっしゃいますか。
新城さん:
沖縄は毎年5月15日になると、「復帰とは何だ」と問い掛けられてきて。50年間で分かったことがたくさんある。その分かったことをできるだけ共有して、言いたいのは沖縄にとって復帰とは何だったのですかという質問じゃなくて、日本にとって沖縄の復帰とは何だったのかと。復帰というのは、僕は「鏡」だと思ってる。
桑子:
鏡?
新城さん:
毎年、沖縄の人は復帰という鏡でもって、自分自身の姿を見るわけですよ。あ、今これは自分が望んだ顔、形してるかな、笑ってるかなとかね。やっぱり苦悩してるなとかね。その鏡を持ってるだけ、沖縄の人はちょっと立ち止まれる。それを沖縄以外の日本の場所で、そういう鏡を持ってるかというのを問いたいですね。そのときにはじめて、お互い自分事として、自分事って多分、人とつながることができる唯一のポジションじゃないかな。「私がいる」ってね。私がこう考えるっていうのが。
森本さん:
遊びに行ってた場所が、50年前はどういう場所だったのか、そこにいる地元の方々がどういう思いで今もいるのか。ちゃんと深いところに目を向けて、次は沖縄に行きたいなと。僕なりにできることをちゃんと探してやっていきたいなっていうのはすごく思いました。
桑子:
沖縄と一言でいって、パッと思い浮かべるイメージはさまざまあると思うんですけど、その見方、方向を少し変えたり、時間軸を少しずらしてみると、全く違うものが見える。そのことにしっかり目を向けていかないといけないなということを、私自身感じました。皆さんにとっては、どんな旅だったでしょうか。
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