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徹底取材! “会津の三泣き”そのルーツに迫る

「厳しさ」と「人情」と「別れ」と
  • 2023年07月06日

暮らしに身近な疑問を徹底取材する「しらべてmeet!」。今回は福島県会津地方に伝わる、ある言葉について。

「会津の三泣き」。2年前まで会津若松支局に勤務していた私は当時、よく耳にしました。会津の人の“気質”を表したとされる言葉で、その意味は、会津に来た人は、初め会津の人の「よそ者」に対する厳しさに泣き2回目は、会津の人の温かな心と人情に触れて泣くそして3回目は、会津を去るときに離れることのつらさに泣くというものです。会津の人が持つどこか少しとっつきにくい性格と、一度仲良くなってしまうと離れがたくなるほどの深い人情を表した言葉です。

ただこの言葉がいつ生まれ、どのように広まったのか。これまで、私は考えたこともありませんでした。今回はこの会津の三泣きのルーツに迫ります。

(福島局・潮悠馬)

誰も知らないそのルーツ

「会津の三泣き」のルーツを探るため、まずは会津若松市の中心部の神明通りで街の人に聞きました。

会津若松市の街の人

「ほかから来た人がなかなかとけ込めない」。

「情に厚くてってところですよね」。

「去るときに会津の人の温かさに涙を流す」。

ほとんどの人がその意味を知っていましたが、そのルーツを聞くと…。

「分からない」。「いつからなんだろ。だいぶ前だよね」。

1時間聞き込みを行いましたが、なんと誰も知りません。

聞き込みの範囲を広げようと、会津若松市のシンボル、鶴ヶ城のほうまで歩いて周りを見ているとお店の壁に「会津三泣き」と書かれているのを見つけました。答えを知っているに違いないと意気込んで店に入りました。迎えてくれたのは店主の大島恭子さん。

大書したのは大島さん本人ということで、詳しく話を聞かせてくれました。壁に書いたのは今から20年ほど前。33歳の時に店を継ぐために地元に戻ったときのことだといいます。

お店の壁にデカデカと書かれた「会津三泣き」の文字
店主の
大島さん

「高校卒業以来に会津に帰ったらみんな私のことを心配してくれていて地元の優しさ、情に感動したんです。これがあの「会津の三泣き」かと。それで壁に書きました。ただ、昔から言われていた言葉だから、いつからあったのかは全然わからない。それこそ私たちが高校ぐらいのとき、いまから30年、40年前には間違いなくあった話ですよ」。

昭和の終わりごろには「会津の三泣き」がすでに定着していたというわずかなヒントが得られました。

ほかに手がかりはないかー。続いて街で見つけたのはなんと「サンド泣き」と名付けられたお菓子。製菓会社の社長によると、「四度目」はおいしくて泣かそうという意気込みで作ったとのこと。そこまで言うならと社長に話を聞きました。

太郎庵
目黒社長

「ルーツ?わからない。なんとなく口伝えで聞いているくらい。言葉の文脈からいうと会津以外の人が作った感じがしますよね」。

ここでは「外から来た人の目線」という気づきが得られました。しかし街での調査はこれが限界。地元の人たちの間で言葉の意味は浸透しているのに、そのルーツは誰も知らないという意外な結果に。

ただ調査では、なんとなくヒントが見えた気もします。まず①30年前~40年前には浸透していたこと、そして会津の外から来た人、②「よそ者」が言い始めたのではないかという点です。たしかに言葉の意味をみるとよそ者に対する厳しさ会津を離れる、といった外から来た人の視点で語られているように聞こえます。

「三泣き」の名付け親は〇〇!?

せっかくここまできたのなら真相を突き止めたいと、これまでの人脈を頼りに取材を続けたところ、「この人なら知っているのでは」との情報が寄せられました。会津の歴史に詳しい会津若松市歴史資料センターの近藤真佐夫さんです。事情を話したところ、「三泣き」の出どころがわかったと連絡がありすぐに訪ねました。

近藤さんが用意してくれていたのは、はるか47年前、1976年1月の朝日新聞福島版。たしかにそこに「会津の三度泣き」と印刷された記事の見出しがありました。近藤さんによると、この記事が『三度泣き』という表現が登場した最も古い資料だといいます。

1976年1月6日付 朝日新聞 福島版

そこにはこう書かれていました。

“会津の三度泣きという言葉がある。これは転勤族の新聞記者がつくったもので、地元の人は知らない言葉だという。”

全国転勤の新聞記者が赴任して感じた会津人の気質を、郷土史の権威で、市役所にも勤めていた宮崎十三八さんに話したことが始まりではないかと近藤さんは考えています。

近藤さん

「役所はマスコミの方といろんな場面で繋がりがあるので、宮崎さんが新聞記者と酒を酌み交わすような機会もあったと思います。そこで、ほかの地域から赴任してきた記者が会津人のよそ者を受け付けない気質や人情深さに泣かされたという話が出たのではないか。それで一つの物語ができたんだと思うんです」。

近藤さんのおかげで、かつて会津に赴任した新聞記者が作ったという新事実がわかりました。ただ宮崎さんは27年前にすでに亡くなっていて、実際に言い出したのが誰なのか、今回はそこまでは突き止められませんでした。ただ、昭和50年代にこの記事が書かれ、地元でも定着していったと考えられます。

三泣きの気質育んだ歴史

こうして「三泣き」のルーツはおおよそ解明されましたが、根本的な疑問もわいてきました。それは、そもそもなぜ会津の人に三泣きと呼ばれるような「気質」が育まれたのかということです。その根本についてさらに詳しい方に話を聞くことができました。懸田弘訓さん。60年以上福島の郷土史や伝統芸能を調査・研究してきた福島の生き字引です。

懸田さんは「三泣き」と表現される会津の人の気質が生まれた背景には、会津が経験した歴史が深く関わっていると考えています。

懸田さん

「学問的な裏付けがあるわけじゃないですけれども、三泣きの精神が生まれたのは戊辰戦争(会津戦争)のあとじゃないかと思うんです。幕府に従って自分たちが行ってきたことが正しいと信じて戦って敗れ、明治政府から国賊扱いされた。この歴史的経験によって自分たち以外の人を信じることができなくなってしまった。そのため最初は「よそ者」に警戒する。ただ、この人ならと確信を持つと、とことんつきあう。会津の人には非常に人間的なところがあるんです。それが三泣きのおこりじゃないかなと思います」。

会津の三泣きは全国転勤の新聞記者が作り、昭和50年代に書かれた記事で地元に定着した。そして、その背景には会津戦争という歴史があった。これが今回の結論です。

取材後記

会津に赴任した4年前、冬は雪が降り寒く、夏は盆地だから暑い、その自然環境に打ちのめされました。神奈川県出身の私は知人もいない。立ち寄った飲食店では「店閉めたいんで早く食べてもらっていいですか」と言われる始末。私自身何度も泣かされた当事者でもあります。ただ、会津で知り合った人たちは私がテレビに出演すると、いまでも「頑張っているね」と必ず連絡をくれる、本当に心優しい人が多いのです。今の自分があるのは会津での経験があったからだと言えます。

今回取材した懸田さんは「三泣きの気質が今も残っているのは、会津の独特の文化で一つの宝としてこれからも大事にしてほしい」と話していました。人間関係が希薄になっていると指摘される現代社会のなかで、義理や人情を大切にする会津の文化はこれからも残り続けてほしいと強く感じました。

  • 潮悠馬

    NHK福島放送局 記者

    潮悠馬

    2017年入局
    2021年まで2年半会津若松支局に勤務。会津を離れるときは取材先と「サライ」を歌いながら泣きました。

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