【福島県双葉町】私が震災を語る意味
- 2023年04月11日
震災を語る若い女性
去年8月、帰還困難区域のうち先行して除染やインフラ整備が進められてきた「特定復興再生拠点区域」で避難指示が解除された双葉町。
避難先に移していた主な役場機能は町に戻り、災害公営住宅なども整備されるなど、住民の帰還が始まっています。
県内外の人たちも町を訪れるなど、町ににぎわいが戻ってきています。
中でも多くの人たちが訪れているのが「東日本大震災・原子力災害伝承館」です。
この施設で働く若い職員がいます。南相馬市の自宅から通う渡邉舞乃さん(21)です。
渡邉さんは小学3年生のときに南相馬市で被災。原発事故による放射線への不安から県外での避難生活を送りました。
高校卒業後、伝承館に就職。およそ1年後には「語り部」としてもデビューし、震災の記憶を伝えてきました。
震災を語る中で「一つの悩み」
渡邉さんは震災の記憶を伝える中で、一つの悩みを抱えていました。
渡邉舞乃さん
自分は津波も見ていないし、自分以上にすごい経験をしている人がいるから、その人たちに比べて私は少しの経験しかしていないのに語り部をしていいのかな。不安をすごく感じています。
渡邉さんは自分の体験と他の人の体験の大きさを比較して、もっと大変な経験をしている人がいる中で、震災を語っていいのか悩んでいました。
探し続けた 震災を語る意味
前回取材をしてから1年余り。渡邉さんは「自分が震災を語る意味」を探し続けてきたと言います。
悩みの解決のヒントとなったのは県外の人との交流でした。
きっかけは、おととし伝承館のイベントで訪れた長崎。
原爆を体験し、90歳を超えてもなお、平和の大切さを訴えてきた被爆者から伝え続けることへの強い思いを聞いたのです。
長崎の語り部 築城昭平さん
本当に忘れられる。忘れますね。みなさん。ぼやっとしておったら忘れられていく。福島のことも語り部がいなかったら、もう忘れられつつある。ちょうどそのころ。だから努力して伝える人が必要だと思います。
渡邉さんは長崎を訪れて以降、県外で様々な人と交流するたびに、「自分が語る意味」を考えるようになりました。
渡邉舞乃さん
岩手では、若い語り部がいるだけで嬉しいと言われて、頑張らないといけないと思って。東京では、震災の被害の大きさを知らない人がいてショックを受けて。出張を重ねていく度にどんどん自分が伝える意味を感じるようになりました。
各地で様々な言葉をかけられ、自分が語る意味を少しずつ見つけていきました。
県外での気づきは渡邉さんの語りの内容にも変化をもたらします。
「地震の揺れが大きかった場合、断水が発生することが多い。どんな入れ物でも大丈夫なので水を多めにためておくこと」
「停電になると体温調節が困難になる。 夏であれば熱中症や脱水症状にならないように保冷材や飲料水を。 冬であれば防寒対策にアルミブランケットやホッカイロなどのご準備を」
渡邉舞乃さん
実際に災害が起きたら何をしたらいいのかわからない人が多いのかなって東京で感じたので聞いた人が参考になる文章を付け加えました。
支えてくれる同期の存在
渡邉さんが伝え続けてこられたのには、支えてくれる存在がありました。
いつも相談し合っているという2人。
今回渡邉さんが原稿を変えるときにも遠藤さんに相談しました。
遠藤美来さん
同期の中でも同級生は私と舞乃ちゃんだけなので、自分のことのように舞乃ちゃんのことを考えてあげたいし、アドバイスしてあげなきゃなって思っています。
渡邉舞乃さん
語り部を始めてすぐとかは悩んでいて、それは美来ちゃんも同じで一緒の時期に一緒のつらい思いをしたからこそわかり合える部分っていうのはすごく大きいなと思っていて、美来ちゃんがいなかったら、自分は成長できていないんだろうなとか思うことはすごく多くあるので、大事な存在です。
もう迷いはない。伝え続ける
自分が震災を語る意味を考え続けてきた渡邉さん。
1年余り前に取材したときから顔つきは変わっていました。
渡邉舞乃さん
人それぞれ経験したことが違うって思っていて「大変さ」とか「経験の大きさ」っていうのはあるけど、それよりも「伝えることの大切さ」の方が私は大事だなって思うので、人と比べることはなくなりました。
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