保育園が消えた先に…熊本豪雨3年
- 2023年06月16日
去年、福岡局の廣瀬雄大アナウンサーが、全長115キロの熊本・球磨川を舞台に「ぶっつけ本番の旅」をしました。3年前の水害で、被災地は人口が減り、報道も少なくなってきましたが、豪雨の爪痕は色濃く残ったままでした。
旅の中で廣瀬アナは、住民たちの心の拠り所となっている、とある保育園に立ち寄りました。
苦境が続く中であっても、保育園を支えに笑いを絶やさない住民たち・・・。まさに被災地のシンボルともいえる場所でしたが、去年の末、解体されたと聞き、ふたたび訪ねることにしました。
(NHK福岡放送局ディレクター 清田翔太郎)
60年以上 住民と共にあった保育園
訪れたのは、球磨川に隣接した球磨村・神瀬地区です。
災害前は約500人が暮らしていました。今も被災した住民の半数以上が避難生活を余儀なくされています。3年近く経ったこの春、ようやく、宅地のかさ上げ工事が本格化しました。
高台には、60年以上住民たちを見守り続けてきた、神瀬保育園がありました。
去年の末に解体され、いまは更地が広がっています。園長の娘で元職員の岩崎ちふみさんは、解体されて半年近くたった今も、気持ちの整理がついていないと言います。
「思い出がなくなっていくということもありましたが、もうできる限り、自分の中で考えないようにしてました。たぶん泣きだしてしまうんかなと思って・・・今でもなんですけど、まだ処理できてない、処理したくないような気持ちがあります」
3年前 園児用プールが救った命
神瀬保育園の名前が知れ渡ったのが、3年前の水害でした。
神瀬地区は、隣接する球磨川などが氾濫し4メートルほどが浸水しました。時間は朝4時、異変に気づいた消防団が各家をまわって、避難を呼びかけます。
最初は小雨程度だったものの、あっというまに足下が水で浸かり、家屋の1階は水没。多くの住民が間に合わず、2階や屋根に取り残されました。中には子どもや赤ちゃんを抱いたお母さんもいて、とても泳いで避難できる状況ではありませんでした。
絶望的な状況の中、保育園に避難していた住民たちが動きます。“園児用プール”の活用です。
保育園と浸水した家屋をロープでつなぎ、物干しざおをオール代わりに、園児用プールを船として使って、救助活動をはじめたのです。地元の消防士と消防団が中心になって45人を救出。保育園で「生きててよかったね」との言葉が飛び交いました。
この救出劇がテレビや新聞などで伝わり、神瀬保育園の名が知れ渡っていきます。
岩崎ちふみさんは、保育園で助かった住民たちへのケアを続けていました。7月でしたが濁った水はとても冷たく、冷えた身体を暖めようと、保育園で温かいお茶やバスタオルを出していたといいます。
しかし、球磨川近くは流れが激しいため全員を助けることは難しく、消防団員は仲間が屋根の上で取り残されている姿を見て、手合わせて「ごめんなさい」と言っていたそうです。
住民たちの避難先となった保育園
水が引いても、道路が寸断されたため地域からは出られません。水道や電気が途絶えた中での避難生活を余儀なくされます。
この時、拠点となったのも神瀬保育園。隣のお寺とあわせて120名が4日間、身を寄せ合いました。
住民は「炊き出し班」や「災害復旧班」などを分担。保育園や近所からレトルトや缶詰をかき集めたり、山の湧き水を汲みに行ったり、道路を寸断していた倒木を重機で撤去したりするなど、協力しあいました。
電気がないので夜はロウソク。8時くらいには就寝しますが、子どもが寝静まったタイミングで、大人たちは隣のお寺にこっそり集まり酒盛りをしていたそう。ほとんどが保育園の卒園生で、幼なじみの間柄。大きなトラブルもなく、安定した避難所運営ができたのは、こうした住民同士の信頼関係だったといいます。
神瀬保育園の園長・岩崎みづほさんは、こうした住民同士が深い絆を持つ神瀬地区のことを“桃源郷”と称しています。
「私は昔から、ここは“桃源郷”だったと思うんですよね。普段から、親が外出しても近所の人が、『子供を見といてあげるよ。行ってらっしゃい』『飲みに行ってらっしゃい』『留守だったから冷蔵庫にお刺し身入れといたからね食べてね』って。子育てするのにもいい所だと思っていました」
豪雨から4日目になると、自衛隊が多く入ってくるようになります。
神瀬保育園は斜面地にあり、当時は土砂崩れの危険性もあったので、住民たちはよその避難場所に移ることになりました。保育園を出て行く際、みんなの思いをノートに書いていくことにしました。
そのノートは岩崎ちふみさんが大切に持っています。
「ここで避難生活をしたあとに、もう私たちはいつまでも一緒だからみたいな、すごい一体感が出ていました。『共に過ごしたメンバーだ!』みたいな感じで」
離ればなれになった住民たち。球磨村は平地が少ないため、仮設住宅は20キロほど離れた別の地域に分散して作られることになりました。遠いところで片道50分ほどありました。
岩崎ちふみさんは兄・哲秀さんと共に、離れて暮らす住民が、故郷で再開できる場を設けようと定期的にイベントを企画します。懇談会にカラオケ大会など・・・60~70代の地元女性があつまった“神瀬マダム” と一緒に手料理も振る舞います。集まるのが難しい人には弁当を届け、調理場は保育園を使いました。
「私は村外の子どもの家に避難していて、たぶん帰って来れないんですけど・・・こういうイベントがあるから帰ってこれる口実ができるんですよね。本当にありがたいです」(参加した70代男性)
こうしたイベントを特に楽しんでいたのは子どもたちでした。仮設住宅で暮らすある家族は、イベントがあるたびに『宿題せんば、神瀬に連れて行かんぞ』が合い言葉になったとか。
浸水して住めなくなったある家に、小学生が書いた貼り紙がありました。
再生を誓ったけれど・・・立ちはだかる壁
故郷の再生を誓い合った住民たちですが、厳しい現実が待ち受けていました。
復興の長期化です。球磨川は全長115キロあり、被害が流域全体に及んだため、復興計画は地域単体で進めることはできず、流域全体で行う必要があると結論づけられました。
神瀬地区は宅地のかさ上げが行われることになり、2024年中には終了する見込みです。
ただ、それだけでは3年前と同じ規模の水害には耐えられません。遊水池の整備など総合的な対策が前提にあり、治水の柱と位置づけられている流水型ダム建設は2035年完成予定と、工事は長期間を要する見込みです。
こうしたスケジュールが長く示されなかったため、故郷を離れる人が相次ぎました。
神瀬地区では、当初ほとんどの住民が現地再建を望んでいました。しかし気持ちは徐々に変わり、地区に戻ってくるのは被災した86世帯のうち十数世帯とみられています。
そうした中、神瀬保育園は苦渋の選択を迫られました。
被災当時、保育園には6人の園児がいました。しかし、その家族全員が神瀬を離れたため、閉園することになったのです。岩崎ちふみさんにとっても苦しい結果ですが、“早く安全な場所で暮らしたい”という園児たちの家族を思えば、仕方がないと受け止めたと言います。
「そこの家庭状況も知っているので、その人たちが決断した、選択した未来は応援する気持ちではあります。でも、本当に災害がなかったら、ずっと一緒にいられたのになっていう思いの中ではいます。まだまだ見ていたかったな・・・みたいな」
去年10月には、神瀬保育園のお別れ会を企画。約30人が集まり、みんなで保育園を掃除しました。最後は笑って見送ろうと、笑いが絶えませんでした。
掃除が終わると、一人一人が保育園への思いを伝えます。
「これまで孫、子どもたちを育ててくれてありがとうございました!災害の時、手を取り合って頑張ったこと、この場所がまたそういう場所に、みなさんの手をつないで、にこやかになるよう、場所になるよう願っています」(70代男性)
「まあ、無くなれば跡地をキャンプ場にしたりといろいろ計画しますんで(笑)」(70代男性)
それから2か月かけて、保育園は解体されました。
それでも、もう一度「憩いの場」を
今もなお、復興への険しい道のりが続いています。
特に人口減少は深刻な問題です。球磨村の人口は、被災前は約3500でしたが今は約2800にまで減っています。加えて、復興の長期化で住民は心身共に疲弊してきています。
「災害があったことの怖さとかから軽減してくれるのも時間だったりしたので、もうその点は感謝ではあるんですけど、気持ちが薄れていくのも、もちろん時間なんですよね。だんだんみんなの温度が下がっていく感じですね。冷めていく」
最近も『やっぱり戻ってくるのやめようか』と考える人も出てきており、その話を聞くたびに『またか・・・』と落ち込むことが増えてきたといいます。
それでも岩崎ちふみさんは、住民たちの憩いの場をつくりつづけたいと、水害から3年目の節目となる7月にもイベントを企画しているそうです。