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「おかえりとご苦労さまとありがとう、それしか言えない」

「津波が襲来しています。高台へ、避難してください」
「海岸付近には、絶対、近づかないでください」

あの日。
巨大な津波に街が飲み込まれていくなかで、ぎりぎりまで町の建物に踏みとどまってスピーカーから避難を呼びかけ、津波の犠牲になった女性がいた。宮城県 南三陸町の職員だった遠藤未希さん(当時24)。

あれから12年、未希さんの両親にずっと寄り添い、時にはすぐそばに座って朝から晩まで話を聞き、時には遠くから連絡をとりあい、取材し続けている記者の、「決してメモをとらない」取材ノート。

12年たっても襲われるあの日の恐怖

はじめまして、後藤岳彦といいます。現在はNHKの「災害・気象センター」で勤務しています。

あのとき、3月11日の午後2時46分。
NHK仙台放送局で記者をしていた私は、立っているのが難しいほどの激しい揺れに見舞われました。

震災発生当時の仙台局のニュースフロア

しばらく立ち尽くしたまま、何かにつかまっていた記憶があります。数分は続いたと思います。揺れが止まった瞬間に自席に移動したものの、再び激しい揺れが。棚の資料が落ちてきたのを覚えていますが、原稿を書いたり電話を手に取って取材を始めたりするどころか、ぼう然自失で何もできませんでした。地面が揺れた直後の放送局内の映像では、上司のデスクが原稿を見る端末に向かったり、取材の指示を出したりしている様子が記録されていましたが、私は立ち尽くしているだけ。

正直、恐怖しかありませんでした。

東日本大震災から12年になりますが、今でも激しい揺れで地面が割れて、そこに自分自身が落ちていく夢を見ることがよくあります。

トラックが通過した際に建物が少し揺れただけなのに地震と勘違いしたことも。

偶然見た携帯電話の時刻が午後2時46分だったときなどは、あの日のことを思い出して頭の痛みに襲われることもあります。
神社でおはらいしてもらったこともあります。

これが12年前の3月11日午後2時46分以降の、私の現実です。

災害取材の経験、ほぼなかった

NHK報道の根幹の1つは、災害時の報道です。
しかし私がそれまで経験した地震の最大の揺れは震度4。記者になって9年近く、災害現場での取材経験がほとんどないまま、突然の大地震の被害現場にカメラマンらと車で向かいました。

車内のモニターに映し出されたのはヘリコプターからの津波の映像でした。家を飲み込み、幾重にも重なって押し寄せてくる津波。

何が起きているのか理解が追いつかずに恐怖で心が埋め尽くされましたが、車の進路を海に向かう東ではなく北向きに変えて、移動を続けました。

途中、移動する車の中から見えた街の光景は今もはっきり記憶しています。かなり内陸の道路を走っていたはずでしたが、道路と並行する川を遡上していく津波を繰り返し目撃しました。白いしぶきをあげながら、とにかくすごいスピードでした。

津波に飲まれるのではないか。その津波を避けるために私たちはさらに内陸に移動せざるをえませんでした。

「すみません」としか言えなかった

車の燃料が尽きかけた3月11日の夜。
宮城県北部の登米市に入って避難所の取材をしているなかで、「隣の南三陸町が津波でかなりの被害を受けているようだ」という話を聞き、翌朝に向かいました。

12日、大きな石が散乱する道路を進み、南三陸町の小森地区に入ったときの光景は。

津波で押し流された住宅やがれきの山。周囲は山あいの高い場所にまで津波が押し寄せていました。ここは沿岸から数キロは離れている場所です。道路もがれきで埋め尽くされて通行できない状況でした。

震災発生直後の南三陸町 赤い鉄骨の建物が未希さんがいた防災対策庁舎

出会った町の人たちは、口々に「町の惨状を伝えてほしい」と訴えました。しかし地震で映像を送る設備が被害にあって、放送で映像を伝えることはできず、とにかく無力感でいっぱいでした。

住民のみなさんからは「携帯電話を充電させてもらえないか」「家族に薬を届けたい」「透析が必要な家族がいる。なんとかできないか」などの声。

応えたいと思いながら、でも早く南三陸町の被害の深刻さを伝えるために映像を届ける必要がある。車の残りの燃料も少ない。南三陸町をいったん離れなければならず、「すみません」という言葉しか出ませんでした。

遠藤未希さんの両親との出会い

3月13日の早朝、再び南三陸町に入りました。

取材の拠点を高台の中学校につくり、多くの住民が避難した町の総合体育館を中心に取材を始めました。多くの人の安否が確認できず、住宅や役場、警察署も消防署も病院も壊滅的な被害を受け、防災対策庁舎は赤い鉄骨だけになっていました。

「この先どうなっていくんだろう」

繰り返し起こる地震への恐怖も重なって絶望にも近い思いを持って取材を続けていた時、中学校で1本の動画を見ました。

動画には津波が町に押し寄せる光景と、「急いで高台に避難してください」と呼びかける防災無線の女性の声が記録されていました。

住民からは、「防災無線の放送に背中を押されて、避難して助かった」という声と、その放送を担当した職員の行方が分からなくなっているということを聞きました。

私はその動画を手がかりに取材を進め、3月22日の早朝、町内の別の避難所に向かいました。

数時間歩いて到着した避難所の入り口に「遠藤清喜・美恵子」という名前がありました。防災無線で住民に避難を呼びかけた町の職員、遠藤未希さんのご両親でした。

その頃にはもういくつかの報道機関が取材に訪れていて、私は順番を待って、話を聞く時間をいただきました。避難所生活には食事などの当番もあり、その合間に未希さんを探し続ける両親には、かなりの疲れがたまっていることが分かりました。

限られた時間の中で、ご両親からは、未希さんが震災の前年の7月に結婚したばかりだったことなどお話を伺い、父親の清喜さんの携帯電話に入っていた、婚姻届を手に持った笑顔いっぱいの未希さんの写真も見せていただきました。

家族旅行で撮った写真

避難を呼びかけ続けて亡くなった遠藤未希さん

遠藤未希さんは、専門学校で学んだ介護の仕事を希望していたものの、「介護の仕事につけば、いずれは町外に出てしまうかもしれない」という親からの勧めで、2007年に地元の役場に就職しました。

専門学校時代の未希さんと美恵子さん

震災の前年に結婚して子どもを授かったものの流産して、2か月間、仕事を休みました。職場には復帰したばかりで、その年の9月に結婚式を挙げることになっていました。

避難を呼びかける未希さんの声が収められた動画があることをお二人も知らなかったとのことで、翌日の23日に体育館で待ち合わせて、動画を見ていただくことになりました。

私がもたらしたのは「絶望」だったのか

総合体育館の近くで、小さなモニターの映像に流れた女性の声を聴いた瞬間、母親の美恵子さんは「未希、未希だね」と言いました。

津波が押し寄せる中で放送を続けていた未希さんに、「こんなに津波が来ているのに放送していたんだ。多くの人に、防災無線の放送で助かったと言ってもらったけど、親としては助かってほしかった」と美恵子さんは話し、清喜さんは終始無言で映像を見つめていました。

私には後悔がありました。未希さんを探す手がかりに少しでもなればと思って映像を見てもらったはずなのに、手がかりになるどころか、「どこかで生きている」「もう一度会いたい」という2人の思いを閉ざしてしまったのではないか。

そんな思いが気になって、私は翌日から未希さんのご両親のもとを毎日訪れることになりました。

カメラを回さない時間

取材者としては震災の発生から1か月となる4月11日に、再び未希さんご両親を取材して放送したいとは考えていました。でも正直、このころは取材とか放送とかということより、被災された当事者に寄り添って話を聞くことしかできないと考えていました。私はペンもノートも持たず、毎日、未希さんのご両親の元に通いました。

ご両親と過ごす時間が増えていろいろなお話、震災の前日の3月10日に美恵子さんが未希さんと会った際の会話の内容や、両親がどう避難したのか、さらには南三陸町の土地柄や特産のわかめの養殖のことなど、1日に何時間くらい話したでしょうか。朝から話して気がつくと日が暮れるまで、清喜さんと自宅前のベンチで話をしていて、美恵子さんに怒られたこともありました。でも、とにかく話をしました。

当時はメディアが次々に取材に訪れて、2人は取材を断ることもありました。私もメディアの人間ですが、当時は「放送につなげる」という感覚はあまり無かったと思います。

「とにかく話を聞く時間を大切にしよう」
結果は考えずに未希さんのご両親の元に通いました。

そのうちカメラマンも一緒に通い始めました。遠藤さんの自宅には親戚などが集まり、津波の被害の片付けが始まっていました。でもすぐにカメラを回す(=撮影する)ことはしませんでした。「撮影していいですか」という問いかけが、2人や親戚の人たちを傷つけてしまうのではと考えたからです。

カメラを回してもいいタイミングがきたときに回そう。自宅の片付けをする様子を遠目に見たり、自宅周辺の片付け作業を手伝ったりしました。

私だけでなくカメラマンや音声・照明のスタッフたちも一緒に、清喜さんや美恵子さん、親戚の人たちと話したり、一緒に自宅周辺の片付けをしたりしました。

あるとき清喜さんの親戚が「もうカメラを回しても大丈夫じゃない?」と声をかけてくれて、そこから撮影が始まり、美恵子さんが未希さんの部屋に私たちを案内してくれました。

自宅2階にある未希さんの部屋は結婚してからもそのままで、産まれたばかりの未希さんの写真や、「南三陸町」の文字が入った役場のジャンパーなどが、津波に耐えて残されていました。

未希さんの行方をさがす美恵子さん 防災対策庁舎の近くで

作業の合間を見つけて美恵子さんと一緒に、未希さんが最期まで避難を呼びかけ続けていた防災対策庁舎に向かいました。

庁舎周辺で美恵子さんが、ジャンパーでも書類でも何でもいいからと、防災対策庁舎で手がかりを探す姿を見たとき、私は「2人の思いを伝え続けていこう」と思ったことを覚えています。

「おかえりとご苦労さまとありがとう、それしか言えない」

その後も私は役場の取材以外のほとんどの時間、遠藤さんの自宅に行くようになりました。

行方が分からない人やご遺体で見つかった人の情報が、町の災害対策本部がある総合体育館に集まっていて、そこで2人と一緒に手がかりを探しました。体育館の入り口にはご遺体の発見日時や場所、性別、着用していた服の特徴などが細かく記載された紙が貼ってありました。

4月23日。
清喜さんと一緒に掲示板を見ていた時、368番という番号で清喜さんの目が止まりました。その日に海から引き上げられたご遺体でした。

身長などから未希さんではないと清喜さんは考えましたが、「足首に赤いリボンが巻いてある」と書いてあることが気になっていました。未希さんはサッカー選手が身につけるミサンガのような「ボンフィン」を巻いていたからです。

5月2日。
DNA鑑定の結果「遺体は未希さんと確認された」という連絡が、警察から清喜さんのもとに入りました。私は自宅の前で清喜さんからその事実を告げられました。

清喜さんは黙々とがれきの片付けをしていました。自宅の前には私も含めて多くのメディアが訪れていましたが、清喜さんは無言のまま自宅に入っていきました。

それから10分ほどたったころ、清喜さんが玄関から出てきて私に「5分だけな」と声をかけていただきました。

(清喜さん)
「もう一度会いたい。それだけだよ。あした帰ってくるんだ。素直に迎え入れたい、おかえりという感じで」
「おかえりとご苦労さまとありがとう、それしか言えない」

清喜さんはそう話し、そして大きな手で私の手を握りました。

2日後、未希さんの葬儀が執り行われました。取材者として正しかったかどうか分かりませんが、葬儀の取材はしませんでした。

清喜さんの声を伝えた自分の中で、これ以上何を伝えたらいいのか分からなくなっていたからです。取材に来ていたメディアもありましたが、私は喪服を着て1人の参列者として葬儀に出席しました。

(後編の記事はこちらです)

後藤岳彦 災害・気象センター
2002年入局。初任地は福井局。2010年に赴任した仙台放送局で東日本大震災を経験。その後、ネットワーク報道部、山形局などを経て災害・気象センター。この12年間、宮城県南三陸町で取材を続ける。山形局でデスクとなり、南三陸町になかなか行けなかったが、山形局の後輩の記者たちが南三陸町や防災などを積極的に取材し、番組やリポートを制作。その姿を見て、私自身、伝えていく大切さを改めて強く実感している。

後藤記者はこんな取材をしてきた

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