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19のいのち

宏美さん(60歳)

宏美さん(60歳)

更新2023年07月 更新

事件から7年を前に、遺族のひとりが「宏美さん」と名前を伝えてくれ、イラストにするための写真を提供してくれました。事件が起きた2016年、その年の1月に撮影された集合写真です。毎年、お正月にはみんなでそろって中華料理屋に行き、新年を祝うのが恒例でした。宏美さんも園から外出して家族との時間をすごす、大切なひとときでした。

更新2020年03月 更新

姉は物静かな人で、園の部屋の中でいつもゆっくりと過ごしていました。園に行くと、よく一緒に庭を散歩して、その穏やかでニコニコした表情をみるのが好きでした。姉は言葉を発することはありませんでしたが、好物のパンを食べたくて手をのばしたり、表情をみたりしてコミュニケーションをとっていました。みんなで一緒にご飯を食べて、そんなごく普通の毎日が幸せでした。60年、毎日暮らしてきて、振り返ってみてその日常が幸せだったんだろうと思います。それがなくなってしまいました。

事件の当日、姉の名前がテレビに流れ続けると思うとあまりにもつらく、匿名にしてほしいとお願いしました。一方で事件後は「匿名を望む自分は姉を否定しているのか」と絶えず悩んできました。それもあり、裁判では遮蔽をせず、傍聴席からも被告からも顔が見えるかたちで法廷に立つことにしました。

私は裁判で被告を死刑にするようにお願いをしました。両親からすれば大事な一人息子のはずで、その人に対して死刑を求めることはおわびしたい。しかし被告は現実の話をしておらず、何を語りかけてももう無駄だと切なくなりました。何かひとつでも正直に話してくれれば死刑を求める気持ちも変わったかもしれません。
被告は最後まで自己主張を通し、あまりにもひどい話だと思いました。自分の思いを他人に押しつけることで、自分の心の整理をしているのだと思います。心が少しでもあれば救われるかと思いましたが、それもありませんでした。

事件から時間がたつたびに段々と落ち着きを取り戻してきましたが、話をするたびにあの日に戻ってしまいます。事件は自然に風化していくかもしれませんが、事件をきっかけに障害のある人や社会的に弱い立場の人が安心して暮らせるようになってもらいたいです。

更新2020年03月 更新

弟が法廷で語ったことば

私は、植松聖さんに死刑を求めます。(拘置所にいる)植松聖さんの所へ12回行き、9回会ってくれましたね。そして2月5日。今日は最期になりますね、多分。
今日は2016年8月6日土曜日のことをお話させていただきます。場所は千木良のやまゆり園の体育館です。みどり会の後でしょう。皆さんがいらっしゃいました。神奈川共同会の方から事件の説明がありました。もちろん黙祷の後です。終わりの方になると、どこからか「被害者づらしてるな」と声が上がりました。

職員の皆さんは声を押し殺して泣いていました。植松聖さん、職員の皆さんの気持ちが分かりますか。この3年半、傷つけられた入園者を一生懸命面倒を見て、共に暮らしているのですよ。人が亡くなり、刃物で重傷をおい、職員が、家族が、世の中の人が心に大きな忘れられない傷を背負って生きていくのですよ。現実は残酷ですよ。

植松聖さん、あなたはどうですか?三食昼寝つきで、好き放題言うわ、絵は描くは、手紙は書くは、マンガまで出すは、あまりにもひどいですね。
植松聖さん、そろそろ人の事はいいから、自分の人生、そして起こした事件に真剣に向き合う時ですよね。植松聖さん、あなたは若く、あまりにも幼い。いずれ判決が下った時受け入れるのか、納得いかずに控訴するのか、今から心の準備をするべきですよ。人生は1度です。しっかり考え、決めて下さい。

ひとつお願いがあります。ご両親に私の連絡先を教えて下さい。多分、私と同世代でしょう。大事なひとり息子に私は死刑をお願いしました。一言おわびを言いたいのです。

匿名についてお話しさせていただきます。匿名により、県、県警、地検、地裁、そしてやまゆり園の皆さん、この3年半、本当にやさしく助けていただきました。匿名により非難され申し訳ありませんでした。後ろにいらっしゃる報道の皆さん、匿名により取材に苦労され、世の中に伝えるのに大変だったと思います。この事件を機に報道の仕方をもう少し考えていただければありがたく思います。こんな事件が少しでも少なくなるよう、人の良心に訴えていただければと思います。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた弟の調書から

姉は60歳で犠牲になりました。難産の末に生まれたと聞いています。知的障害がありコミュニケーションをとることはできませんでしたが、時折うれしそうな表情や渋い表情をすることがあって姉の生きている証や成長の証を見ているようでした。食パンが大好きで表情には出しませんでしたがちぎってあげるととても喜んでいる様子でした。鮭も大好きでした。嫌いなものは口に入れないなど頑固な一面もありました。介助が必要でしたが補助がなくても立ったり座ったり、ゆっくりですが歩き回ることもありました。

姉は誰かの助けがないと生きていけないため、父、母には少なからず苦労もありました。
姉が28歳の時に津久井やまゆり園をすすめられて入所しました。施設の職員はとても熱心に接してくれ、それまで使えなかったスプーンを自分で使えるようになりました。姉が成長していると実感し、施設には親以上に面倒を見てもらい感謝のひとことしかありません。事件の年の正月に姉を囲んで食事をしました。毎年恒例の行事でした。新年会のように集まることが私たちの幸せで、きっと姉の幸せでもあったと思います。新年会の時の写真を見ると、幸せな時間を思い出します。もう2度と集まることはできないという無念さと被告に対する怒りの気持ちがあります。

最後に父が面会したのは事件の2週間ほど前で父は名前を呼んで「元気かい?体の調子はどうだい」などと尋ねていました。姉は返事をしませんでしたが、父は肌で幸せを感じることができたようで、姉も幸せを感じているようでした。他の入所者とともに穏やかな日々を送っていましたが、被告が一瞬で奪ったのです。

7月26日の朝、テレビをつけると19人が心肺停止というニュースが流れていて、不安と緊張で心臓が張り裂けそうになりながら父は娘の無事を願っていました。そのあと連絡を受けて父と園に向かいましたが、到着すると人だかりと警察官で混乱していて、とても現実の光景とは思えませんでした。「姉は大丈夫」と信じて待っている私たちに知らされたのは、亡くなったという残酷な現実で、愕然と立ち尽くすことしかできず、なぜ殺されなければいけないのかという思いでした。

人間が起こしたものとは思えない事件を起こした被告は施設で働いていたと知りました。
被告は「障害者は不幸をつくる」という差別思想から事件を起こしたと言いますが、家族の苦しみ、一緒に暮らしていた家族の幸せをどれだけ分かっているのかと思います。
悔い改めるよう厳重に処罰されてほしい。

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

魚がすごく好きで、焼き魚でも煮魚でもよく食べました。食事に魚が出ると、いつの間にか職員のお皿にまで手を伸ばしていました。魚以外は食が進まないこともありましたが、マヨネーズをかけると何でも食べていました。職員にとっては新人泣かせなところがありました。というのも、ベテランと新人をすごく見分けていたんです。慣れている職員が食事を介助すると全部食べますが、新人がやるとなかなか食べてくれませんでした。利用者との関わり方を学ぶ上で鍛えられた職員も多いと思います。
音楽が好きで、童謡など誰かが聞いている歌のメロディーに合わせて首を振っていました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

ぬいぐるみが好きで、部屋にはたくさんのぬいぐるみがありました。特にパンダのぬいぐるみがお気に入りのようでした。本当に穏やかな人で、話すことはあまりできませんでしたが、目をじっと見つめてきて、そうすることで自分の思いを伝えようとしていました。うれしいときは体を左右に揺すって、にっこり笑う姿が印象的でした。人に迷惑をかけることもなく、本当に“天使のような女性"でした。私たちが声をかけた時に見せてくれる、ほほえんだ顔が大好きでした。なぜ、あんなにいい人を無残にも手にかけたのか、絶対に許せません。

施設関係者

どんな困難にも負けない強い人でした。重い病気になったときも、家族の励ましに応えるようにしていた姿が思い出されます。

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