MENU

19のいのち

70歳の女性

70歳の女性

更新2020年03月 更新

法廷で読まれた兄の調書から

私より16歳年下で、亡くなったときは70歳でした。昭和39年に津久井やまゆり園に入所し50年間、ほぼ欠かさず月に1回会いに行っていました。車で行ったり、電車とバスを乗り継いだりして行っていました。1時間以上かかることもありましたが、会いにいく日が楽しみで待ち遠しく思っていました。園に行くと妹はにこにこした笑顔でうれしそうで「散歩に連れて行って」とお願いしてきました。園をぐるっと回ったり、ドライブしたり、面会できるぎりぎりの時間まで一緒にいました。私が「帰るからね」と言うと、さみしそうな顔をしてまだいてほしそうな表情をしていました。もう一度手をつないで散歩をすると、今度はコクリとうなずいて私は振り返り振り返りしながら自宅に帰りました。

最後に会ったのは平成28年7月10日で、いつもと同じような時間でした。ことばに出さなくても私の話していることを理解している様子で、「ありがとう」とか短いことばを話すことはできました。私にとっていとおしい存在で、亡くなってショックでいたたまれない気持ちです。亡くなった後は気力がなくなり、体調を崩して入院もしました。

被告は園に勤めた当時は優しい気持ちだったと思うが、どういう思いで凶行に及んだのか知りたい。かわいかった妹を殺され、被告を厳しく処してほしい。被告も自分が生きていられることはないと分かっていると思います。

更新2020年03月 更新

法廷で読まれためい(上記兄の娘)の調書から

父は両親に代わって叔母の面倒をみてきましたが、事件に衝撃を受け、体が弱々しくなり叔母のことばかり考えています。叔母は6歳で風邪をこじらせて脳に障害をもち、脳炎のため入院しました。退院後も学校に通うことができず、自宅で面倒をみていました。家族でみることができなくなり、仕方なく施設へ預けました。父は施設によく会いに行き、叔母は「お兄ちゃん」と寄ってきて一緒に歌を歌っていました。
叔母は体を動かしているだけでしたが、それでも父は「『お兄ちゃん』と言って一緒に歌っている」と言っていて、心が通じているようでした。

最後に父が叔母に会ったのは平成28年7月10日でした。叔母は施設で待ち構え、父が園につくや手を引いて部屋まで連れて行ってくれたと、父はうれしそうに言っていました。これが最後になりました。父はいつも叔母の顔が目に入るようにいろんなところに写真を置いていました。どの写真も笑っていました。末っ子で障害のある叔母は特別で、特に目をかけていたのを知っています。

事件のことはたまたまテレビで知りました。午前7時半ごろ、職員から涙声で電話があり「被害にあっている人がいるので園に来て下さい」と言われ向かいました。園からの説明で叔母が亡くなったことが分かると目の前が真っ暗になるほど衝撃を受けました。
入所者名簿には「×」と書かれそれは亡くなったことを示していました。
私が、叔母のところを指さすと父は指の先をしばらく見て「死んじゃったのか」と叫びました。その声は震えていて父の心の痛みを感じ胸が詰まりました。その後叔母に会うことができた時、父は眠っているような叔母に「かわいそうに。こんな風になって」と言って顔を両手で包んで声を押し殺して泣き、何も言いませんでした。父は叔母のことで心がいっぱいになっているようで独り言のように叔母の名をつぶやくようになりました。

被告には罪の重さを十分に分かってほしい。被害者が味わった恐怖は想像を超えます。
かけがえのない家族を失った私たちの痛みや悲しみを、被告自身に分かってほしいです。

更新2019年07月 更新

やまゆり園元職員(60代・女性)

今から30年余り前、生活介助を担当させてもらいました。いつも笑顔で「お兄ちゃん来る?お兄ちゃん来る?」と繰り返し聞いてくれるのがうれしく、「来るよ、来るよ、いつ来るかな」などと答えていたのを覚えています。歌を歌っていたり、体を揺らしたりするしぐさが懐かしいです。食事のときに彼女だけ食堂に来ないこともあったので迎えに行くと、ニコニコしながら私の顔を見てくれました。また、お風呂の介助で、洗髪後に髪をタオルで拭いていた時、ふさふさとした真っ黒な直毛がぴんぴんとはねていたのを今でも思い出します。髪の毛が白くなった姿の写真を見せてもらう機会がありましたが、お互いに年を重ね、自分にもいろいろあったように、彼女の人生にもいろいろな出来事があったんだろうなと感じました。

今回の事件では、亡くなった方たちの名前がわからなかったので、自分と関係がある事件だと実感が持てませんでした。しかし、時間が経って、当時の同僚から犠牲になった方の名前を聞いたとき、彼女の着ていた洋服や言葉をはっきりと思い出して涙があふれ、ともに生きた彼女の生涯を重く感じました。
事件から3年が経ちます。彼女には「今でも笑顔をはっきりと覚えています。一緒に生活できたことに感謝しています。安らかに眠ってください」と伝えたいです。

更新2018年07月 更新

同室で重傷を負った女性の兄(男性・50代)

事件が起きた当日は、妹が病院に運ばれたと聞いて、すぐに向かいました。妹は顔やのどにけがをして2日ほど意識がなかったものの、その後回復しましたが、2人部屋で、一緒に生活していた女性は亡くなったと、あとから母に聞きました。それを聞いて、すぐに思い出したのが、その女性とお兄さんの姿です。私たちより20歳くらい年上の兄妹で、女性は少し言葉も話せたので、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、お兄さんをとても慕っていたのを覚えています。やまゆり園の祭りにも来られていて、私の妹が私の肩に手をかけてくっついてきたのを見て、お兄さんは「妹さんは本当にお兄ちゃんのことが好きなんだね」と、私たちに声を掛けてくれました。そのときは「はい」としか答えられなかったんですが、私は、亡くなった女性の方が、よほどお兄さんのことを大好きだと思いますよ、と思っていました。私たち兄妹も、同じように年を重ねていくのかなとか、お2人のように仲良く過ごしていければいいなという風に思っていました。

亡くなられた女性は、A4くらいの大きさの紙に印刷されたお兄さんと映っている写真を持っていました。職員の方がお兄さんを大好きな女性のために印刷したのだと思います。いつもそれを見て、ニコニコ笑って、うれしそうにしていました。うちの妹は、そこまでの意思表示はありませんから、いいなぁと思って、見ていたことを思い出します。

お兄さんも高齢になられて、たびたび施設を訪れるのは大変なのではないかと思いましたが、母の話だと「お兄ちゃんお兄ちゃんと言われるから、来ないわけにはいかないね」と話していたそうです。

私の妹は、たまたま生き延びましたが、もし妹を亡くしてしまう立場だったらと思うと、本当に厳しく、どれほどの気持ちだろうかと思います。どうしても自分と重ねてしまいます。事件のあとは、連絡を取っていません。お見かけすることもありません。どのようにお過ごしなのか、とても心配しています。

犯人には憎しみを感じます。意思疎通ができない入所者を狙ったということですが、個人的には、意思の疎通はできます。言葉が話せないので、どうしてもわからないことはあるけれども、表情や視線や行動で伝わることはある。それは、私たちもそうですし、同室の方のご兄妹を見ていても、そうだと言えます。

更新2017年07月 更新

元職員(女性・40代)

お兄さんのことが本当に好きでした。お兄さんが来ていないときも、近い年代の職員と手をつないでニコニコしていました。歌もすごく好きで、園の盆踊りでみんなで踊ったドンパン節がお気に入りで、ふだんから職員といっしょに歌っていました。朝が苦手でなかなか起きられませんでしたが、「おりんごむきましたよ」と言うと起きてもらえました。朝ごはん用に園で専用のリンゴをストックしていたほどです。人の輪に積極的に入っていく方で、みんなで温泉施設に行ったときは全く違うグループの人たちのところにちょこんと座り、ほほえんでいたこともありました。

更新2017年01月 更新

元施設職員(女性・70代)

お兄さんのことが大好きで、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕っていたようで、いつもお兄さんが施設に来るのを心待ちにしていました。お兄さんが来るとよく手をつないで2人で散歩をしていた姿が非常に印象に残っています。私たちにも「お兄ちゃんのことを話してよ」ってせがんできたように感じて、話をしてあげると、すごく喜んでニコニコと笑顔を見せてくれました。歌が好きで、お兄さんが教えてくれた歌をよく口ずさんでいるようでした。いろいろなことに挑戦する一面もあって、私たちを驚かせてくれました。みんなで遠足に行った遊園地では、いろいろな乗り物に挑戦していました。水族館もお気に入りで、水槽の前で泳ぐ魚の姿をじっと見つめ、離れようとしなかった姿が思い出として心に残っています。

ご意見をお寄せください

相模原障害者殺傷事件についてのご意見や、
亡くなられた方へのメッセージを募集しています

PAGE TOP