昭和20年3月の東京大空襲以来、全国を襲った米軍の無差別爆撃。命からがら生き延びたものの家族を失った少年たちは、焼け跡に投げ出される。たった一人、生きるための戦いが始まった。
少年たちが目の当たりにした、ゼロになった日本。
生きる糧を得るために、アメリカ兵に近づいた少年たち。豊かな食糧、最新鋭の武器や戦車に、目を奪われた。
1000人を超える人々がひしめいていた上野駅の地下道では、餓えや寒さで連日のように死者が出た。
焼跡を駆け回り、煙草の吸い殻を拾い集めて売ったり、靴みがきをしたりして日銭を稼いだ少年たち。命をつなぐためにあみ出した、驚くべき知恵と工夫とは。
政府や自治体は、浮浪児を保護するためとして、施設に強制収容する通称”狩りこみ”を行った。しかし、鉄格子に囲まれた収容施設を嫌って、子どもたちは繰り返し脱走した。
進駐軍相手の夜の女たちは、「パンパン」と呼ばれ世間の冷たい視線にさらされていた。その女性たちと戦災孤児が助け合って生きた知られざる秘話。
終戦直後、上野駅にあふれた孤児を私財をなげうって救ったひとりの主婦がいた。女性の名は石綿さたよ。上野駅で子どもたちが野良犬のように扱われている様子に衝撃を受けたことが、孤児院「愛児の家」を始めるきっかけだった。
孤児院「愛児の家」を始めた石綿さたよは、年ごろの子どもたちのために働き口を探した。その中の1つが、GHQ民間検閲局(CCD)のメッセンジャーボーイの仕事だった。