「女」たちのゼロ年 女たちの目覚め

敗戦後の日本でいち早く変貌を遂げたのは、「銃後の守り」に徹してきた女たちだった。ある人は進駐軍兵士を相手に身体を売り、ある人はマイクの前に立って政府を痛烈に批判した。それはまさに、今日を生きるための新たな戦いの始まりだった。戦後初の総選挙では全国で39人の女性代議士が誕生。戦後ゼロ年を生きた、女たちの目ざめ。

食糧メーデー 永野アヤメ(東京・世田谷) 乳飲み子を背負い、25万人の前に立つ

空襲で焼け出され、乳飲み子を抱えて世田谷の知人の家に間借りする。極端な食糧不足の中で雑草さえ食べつくし、母乳も出なくなった。そのころ、政府や軍関係者による食糧の隠匿が次々に発覚。これに憤った人々は「世田谷米よこせ区民大会」を開催、参加者の一部が皇居の台所に踏み込んで皇族の食糧事情を暴く事件に発展した。永野アヤメはその1週間後、皇居前広場で開かれた「食糧メーデー」で25万人の先頭に立ち、母親を代表して政府を痛烈に批判した。ひとり娘を育て上げ、平成16年に90歳で没する。

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    中田史郎さん
    大正15年(1926)生まれ。19歳で食糧メーデーに参加。永野アヤメの演説を聞いて衝撃を受ける。

    中田史郎さんやせ細った女性の叫びで 時代が動いた
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    加藤秀子さん
    昭和10年(1935)生まれ。永野アヤメが世田谷で身を寄せた家の娘。食糧を得ることも困難な貧しい生活を共にしていた。

    加藤秀子さん同居していたアヤメに“白羽の矢”が
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    大島幸夫さん
    昭和12年(1937)生まれ、新聞記者。昭和50年代、食糧メーデーなど終戦直後の日本をテーマに連載記事を書く。この時、永野アヤメに直接会って取材した。

    大島幸夫さん永野アヤメを演説へと突き動かした”過去“とは?
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    鳥居芳子さん
    昭和7年(1932)生まれ。空襲で家を焼け出され、世田谷の戦災者住宅で暮らす。母親は、世田谷の米よこせ大会に参加し、皇居の台所に向かった。

    鳥居芳子さん皇居から戻り 押し黙った母
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    潮地ルミさん
    大正14年(1925)生まれ。世田谷の戦災者住宅で開かれた米よこせ大会を見ていた。参加者の一部が皇居にトラックで向かい、押し入った台所から持ち帰った“残飯”を見て憤った。

    潮地ルミさん女たちの怒りに火をつけた皇居の"残飯"

闇の女 ラク町のお時(東京・有楽町) 「パンパン」への偏見と戦った女

東京の商業学校に通っていた昭和20年、東京大空襲で家族を失う。上野駅地下道での浮浪生活を経て、有楽町を根城にする街娼たちの元締めとなった。昭和22年、19歳のとき、NHKアナウンサーのインタビューによるラジオ番組「街頭録音」で、街娼たちの社会復帰を受け入れようとしない世間を痛烈に批判し、大きな反響を呼んだ。お時自身も、夜の世界から足を洗おうと工場の事務員に就職するが、その後消息が途絶える。

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証言者(お時)

「パンパン」とは

終戦直後の昭和20年8月26日、政府の閣議決定を経て「特殊慰安施設協会」(RAA)が発足。進駐軍兵士による婦女暴行を未然に防ごうと、慰安婦の仕事に就く女性を全国で募った。性病が蔓延し、翌年GHQの指示によってRAAが閉鎖された後も、女性たちは路上に立って客をとり続けた。進駐軍兵士を客とする街娼は、いつしか「パンパン」と呼ばれるようになった。

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森田芳枝さん
昭和17年(1942)生まれ。新宿ゴールデン街の店の元ママ。お時が40歳のときに新宿で出会う。お時は日雇いの人々に仕事を差配する「手配師」をしながら、仲間の面倒を見ていたという。

森田芳枝さんラク町のお時 知られざる晩年と素顔

証言者(「パンパン」)

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    大和昭一さん
    昭和2年(1927)生まれ。出撃前に終戦を迎えた元特攻隊員。復員後上京し、進駐軍兵士を客にする日本人女性の姿を見て衝撃を受ける。

    大和昭一さん米兵によりそう女性の姿に痛感した敗戦
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    中田徳郎さん
    昭和10年(1935)生まれ。深刻な食糧難の中、近所でも家計を助けるために米兵相手の街娼になっていく女性たちの姿を見た。

    中田徳郎さん普通の娘たちが「パンパン」になった

戦争未亡人 宮﨑はるみ(長野県旧南向村) 女ひとり 村の男たちの差別と戦う

昭和18年、39歳のとき夫・善武に召集令状が届く。夫がビルマで戦死して以降、年老いた義理の父母と4人の娘との暮らしを、女手ひとつで支えた。男中心の封建的な村社会の中で、「女を捨てて男同然に働き続けた」という。女性代議士が誕生した戦後初の総選挙に、男女同権の新しい時代が来ると期待した。4人の娘を育て上げ、80歳で生涯を終えた。

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証言者(宮崎はるみ)

村を変えた戦後初の総選挙

昭和20年12月、マッカーサーによる民主改革によって付与された婦人参政権。初めて行使された昭和21年4月の衆議院議員選挙では、39人の女性代議士が誕生。南向村がある長野県では、唯一の女性立候補者が最多の得票を集め、トップ当選した。

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宮崎とき子さん
昭和8年(1933)生まれ。宮崎はるみの長女。父が召集されて以来、苦労続きだった母親を支えた。婦人参政権が行使された総選挙に、母は大きな期待を寄せたという。

宮崎とき子さん白木の箱をのぞいた夜から母は変わった

証言者

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    宮崎とき子さん
    昭和8年(1933)生まれ。宮崎はるみの長女。父が召集されて以来、苦労続きだった母親を支えた。婦人参政権が行使された総選挙に、母は大きな期待を寄せたという。

    宮崎とき子さん「立って小便ができるか」とばかにされた母は・・・
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    宮崎とき子さん
    昭和8年(1933)生まれ。宮崎はるみの長女。父が召集されて以来、苦労続きだった母親を支えた。婦人参政権が行使された総選挙に、母は大きな期待を寄せたという。

    宮崎とき子さん「世の中が変わる」 女の一票に期待した母
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    杉澤要さん
    大正15年(1926)生まれ。戦後初めての総選挙に向けて、村で開かれた立会演説会を聞きに行った。女性たちは字を習って投票に行ったという。

    杉澤要さんおばあさんたちは 字を習って投票所へ
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    鶴岡さき子さん
    昭和2年(1927)生まれ。昭和18年から村役場の職員として働く。終戦後、命令を受けて動員書類の焼却に関わる。戦後初の総選挙では、投票所の受付を担当した。

    鶴岡さき子さん変わりゆく女たち 変わらない男たち