今週と来週は、甚大な被害を出した台風19号の被災地の声をお伝えします。
改めて、今回犠牲になられた方々、被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
今回は、福島県で取材した声です。川の氾濫や堤防の決壊による住宅への浸水、土砂崩れ、道路の損壊、護岸の崩落、橋の流出、集落の孤立…など、何らかの被害が出た市町村を全て数えると、40を超えます(福島県による集計)。被害調査も進行中で、大きな被害が出たにもかかわらず集計に記載のない自治体もあり、全壊や半壊、浸水した家屋の数などは、今後も増えるはずです。
沿岸部では、いわき市、相馬(そうま)市、南相馬市などで被害が大きく、浄水場などが浸水して大規模な断水が起きました。断水の解消には1週間以上かかり、いわき市では、一部で水道が再開するまで9日もかかりました。また内陸部では、福島県から宮城県へ流れる一級河川・阿武隈(あぶくま)川と、そこに合流する中小の支流で、30カ所以上も堤防が決壊して大きな被害が出ました。結果、この阿武隈川の流域は、浸水した面積が全国で最大となりました。
そこで私たちは、台風通過から4日後の17日から20日にかけて、この阿武隈川の上流から下流に向けて移動しながら、被災した方々の声を取材しました。
まず、阿武隈川が市内の南北を貫く須賀川(すかがわ)市から取材を始めました。
支流が氾濫して浸水した丸田町(まるたまち)では、70代の女性から話を聞きました。夫、娘との3人暮らしで、家の前の道路には、災害廃棄物が山のように積み重なっています。タンスを2棹(さお)、ベッドも1つ廃棄するそうです。雨が強くなって避難所へ向かい、次の日に戻ると、床上1.5mまで浸水の跡がありました。
「びっくりだね。帰ってきたら畳が待ち上がって、浮いちゃって、冷蔵庫が倒れたり、茶ダンスもずれていたからね。全部、(廃棄物として)出しちゃった…出すしかないから。水を被ったものは拭いても拭いても白く残っちゃうし、菌があるから。これからの生活が不安です。どうしたらいいか…というのが一番、正直なところですね。隣の人たちも、‟マイナス思考にならないで、プラス思考にしましょうね”って声をかけてくれるから、お互いに助け合っているんですけど、そういう声かけって大事ですね」
その後、阿武隈川の堤防が決壊した浜尾(はまお)地区に行きました。息子や孫と3世代で暮らす80代の男性に聞くと、栽培していた収穫前のリンゴに泥が付着し、出荷できなくなったそうです。
稲刈り後に保管していたコメも水浸しになりました。男性は13日の午前0時前に避難を始めたそうで、自宅は1階の天井付近まで浸水し、市が派遣したボランティアが、片づけを手伝っていました。
「コメは50アール分の収穫がゼロだね。来年は農業はできないと思っています。トラクター、田植え機、消毒の機械、全部水没して…。ボランティアに感謝します。濡れた畳が運べないので本当に助かっています。家族だけでは、とても出すことができません。捨てるものを見ると…ダンプ3台分ぐらいあるんじゃないか。家のものは、もう皆無だね。残ったものは命です。それに一番感謝です」
続いて向かったのは、郡山(こおりやま)市です。阿武隈川の支流が氾濫し、郡山駅のすぐ近くが浸水しました。約2m浸水した酒店は、1階の天井まで水につかり、商品は全て水没したうえ、冷蔵庫やレジ、パソコンなども使用不可能になりました。
50代の店主の男性は、2階で妻と息子の3人で暮らしていると言います。台風の翌日には同業者が駆けつけ、丁寧に商品を洗ってくれたそうです。
「幸いにして、もうぎりぎり、危うく2階も浸水するかと思ったんですが、何とか難を逃れました。収入も途絶えてしまうことへの不安は当然あります。それだけに、早急に営業を開始できなきゃいけません。助けてくれた方々は、一本一本、瓶を手に取って、これ以上水で流すとラベルが剥がれるとか、見極めながら丁寧にやっていただきました。中には、“水害に遭ってしまった瓶でも平気だから、持って来てくれ”と、わざわざ電話をくださるお客様もいて、本当に恵まれたなと思っています。毎日のように勇気づけてくれる友達やお客様、やっぱりその心が、僕たちの励みになっています。一本一本、泥をかき分けて出してくれた商品を、ちゃんと最後までお客さんの手に届けたいと思います」
また、阿武隈川の支流の堤防が決壊した田村(たむら)地区では、多くの家で1階がほぼ水没しました。
ある家では、流れてきたネギが1階のひさしに引っ掛かっていて、夫婦が泥まみれになって片づけに追われていました。60代の奥様によれば、育てていた野菜は泥をかぶり、全て廃棄するそうです。趣味の手芸で使っていた、着物の生地や道具も水に浸かりました。
「土曜日の夕方に、避難所に逃げました。2日目のお昼まで水がいっぱいで、もう全部、海でしたね…海。なんにも無くなって、一からですので。家だって、床、壁、天井、全部だめですから。まだ夢のようで、何も考えられません。今は支援の皆さんがいて気も張っているからですけど、皆さんが帰って、何にもないとなった時が怖いです。皆さんの手前、“元気であれば、なんとかなるから”って言って、褒められたんですけど、内心は違いますよ。本心は、“どうするの?”っていう感じですけど…」
その後、本宮(もとみや)市に移動しました。阿武隈川が市の中心部を流れています。
本流と支流の合流地点が氾濫し、市街地の広い範囲で浸水しました。70代の女性が経営する金物店では、千葉県に住む双子の孫が、店の掃除を手伝っていました。20代の男性で、商品は全て水と泥をかぶったため、一つずつ水で洗い、裏の倉庫で乾かしているそうです。店の1階は1.5mの高さまで浸水しました。
「仕事も休みをいただいて作業しています。会社の上司の方々も何名か、昨日も作業に来ていただいたので、非常に助かっていますね。県内、県外含めて様々な方が食料だったり日用品の支援をいただいていて、僕らもびしょびしょになりながら寒い中で作業してるんですけど、その中で温かい食べ物をいただけるので、非常にありがたいですね。祖母が1日でも早く、普段の生活に戻れればと思っています」
さらに、避難所の本宮小学校に向かいました。
約100人が体育館で寝起きし、パンや即席めんなどが支給され、入浴施設へのバスも運行されていました。80代と70代の夫婦に聞くと、自宅の1階はほぼ水没したそうです。避難所は家の近くでしたが、急激に水かさが増し、逃げる機会を逸しました。息子家族と7人暮らしで、息子らは自宅の2階で暮らし、家の片づけを進めています。
「連絡がつかなかった知人が見つかって、安心しました。心配でしょうがなかったです。警察から連絡があって、けさ会いに行ったら元気でした。よかった…安心しました。2階から避難する時は、胸まで水に浸かって、濡れながらゴムボートでここに来ました。昨日はヒーターも2台入れてもらったし、ありがたいですよ。最初はブルーシートに寝て体中が痛かったけど、今はマットレスがあるから」
最後に阿武隈川をさらに下流に向かい、伊達(だて)市を取材しました。支流が氾濫し、浸水被害のあった梁川町(やながわまち)では、理容店の扉に“今後の営業再開の見通しは立っておりません”と紙が貼られていました。
店主は70代の男性で、店の裏では県外からも駆け付けた親戚たちが、浸水して動かなくなった車を人力で移動させていました。
「気がついた時には、茶の間のこの辺(ひざ下の高さ)まで水が上がってきて、トイレに入れなかったです。商売道具は全部泥の中だし、それは使えないし、長年のお客さんもいて“営業をやめます“って書けないもんだから、一応、“営業の見通しは立ちません”ってことを書かせてもらったんですけど…」
そこから歩いて7分、80代と60代の夫婦から話を聞きました。避難所から通って、自宅を片づけているそうです。1階の天井が水圧で破れ、なんと2階の30cmの高さまで浸水していました。
毎日換気しているものの、すでに押し入れには白いカビが発生していました。大雨の中、ご主人は町内の防災班として支流の近くで活動し、家に戻った時には、待っていた奥様ともども避難の機会が失われていました。2階のベッドの上で一晩過ごした後、ボートで救助されました。ご主人はこう言いました。
「住む家がないです。家屋の取り壊し、今後の住居にかかる家賃の一部など、援助金がほしいです。 ぜひ皆さんにご協力をお願いしたいです。こういう家じゃ住めないから、取り壊すほかないです。その後の資金が無い…年もとって、これから新しい家を建てるなんて考えられないし、そうすると家賃を払ってアパートにでも入るしかない…いろいろ問題はあります」
奥様は“展望は何も持っていません”とひとこと言いました。自治体のホームページには、見舞金の給付や生活再建のための貸し付け、市民税、固定資産税の減免、国民健康保険、介護保険、国民年金の保険料の減免など、様々書いてあります。今後、“被災者生活再建支援制度”が適用されれば、半壊以上と判定された世帯には、都道府県がつくる基金から最大300万円が支給されます。情報であれば、遠くの親戚や友人でも調べることは可能で、是非、被災した方をサポートしてほしいと思います。