「瞑想(めいそう)の松」の由来とは?
今回のみやぎUP-DATEでは、こちらの投稿にお応えします!
その「瞑想(めいそう)の松通り」の場所がこちら。
仙台市青葉区にある地下鉄旭ヶ丘駅の前。
多くの住宅が立ち並ぶ地域を南北に走る通りです。
さっそく現地へ!
安藤さん 「瞑想の松通りにやって来ました。 今のところ、どこにも松らしきものは見当たらないのですが、どこにあるのでしょうか?」 |
通りに松は見当たりません。
では、どこにあるのか?
松についてご存じだという、この地域に住む今井 晴夫さんに案内していただきました。
今井さん 「こっちです。この山の上です。」 |
安藤さん 「なんか太い幹が見えてきましたけれど、もしかしてあれですか?」 |
今井さん 「そうそう、あれです。」 |
瞑想の松通りからおよそ200メートル。
坂道を登っていくと、仙台市内が一望できる場所に大きな松が立っていました。
樹齢は660年以上。こちらが「瞑想の松」です。
どんな由来が?
瞑想の松の名前の由来を調べに、仙台文学館へ向かいました。
お話を伺うのは学芸室長の渡部 直子さん。
この松には、ある男性の思いがこもっていたといいます。
渡部さん 「(ある男性が)学生時代に失恋をして、その苦しい胸の内を抱えながらこの松に足しげく通ったという話が伝えられています。」 |
男性が叶わぬ恋を憂い、この松の下でめい想したことから、「瞑想の松」と呼ばれるようになったといいます。
その男性とは、明治を代表する文芸評論家・高山 樗牛(ちょぎゅう)。
当時の文芸界ではとても影響力のある人で、樗牛がその作品を絶賛したことで世に出たのが詩人の土井 晩翠です。
安藤さん 「めい想するほどの女性、どんな方だったんでしょうか?」 |
渡部さん 「永見みち子さんという、こちらの方で。お写真が残ってます。」 |
樗牛が恋したのは、旧制二高に在学していたころの下宿先の娘、永見 みち子さん。
しかし、みち子さんにはいいなずけがおり叶わぬ恋に。
樗牛が苦しい胸の内を抱え瞑想の松に通う様子は、資料にも記されています。
樗牛は31歳という若さで亡くなりましたが、晩翠ら後輩たちがその功績を語り継ぎ、「瞑想の松」という名前もしだいに広まったと言われます。
さらに昭和16年には、晩翠の尽力により松の下に記念碑も建立されました。
親しまれ続ける松
現在、松がある場所は東北医科薬科大学の敷地になっています。
東北医科薬科大学同窓会長の一條 宏さんに構内を案内していただくと、晩翠が作詞した直筆の校歌が今も飾ってあり、そこには「天才樗牛」「瞑想の松」の文字が。
一條さん 「(学生たちには)何かあれば、「瞑想の松」を思い出してもらい、大学のことを、または青春時代のことを思っていただくのはいいのかなと思っております。」 |
明治のころから様々な思いが詰まった松。
今でも地域の人々に親しまれています。
地域に住む人 「この辺は全部、(子どもの頃の)私たちの遊び場だったから。思い出だね。」 |
松は見に行ける!
改めて場所を確認してみましょう。
「瞑想の松」は、地下鉄台原駅の東側、東北医科薬科大学の敷地内にあります。
大学の敷地内ではありますが、周りは遊歩道になっていて一般の人でも立ち入れるようになっています。
また、東北医科薬科大学の校章には瞑想の松がデザインされており、今でも学生たちに親しまれています。
松があるのは非常に見晴らしのいい場所ですので、近くに行った際には立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
安藤のひとこと。
安藤さん 「高山樗牛、自他ともに認める天才というエピソードがあるくらいの方なんですが、そんな文学者の人間味に触れられるような場所、それが瞑想の松でした。 みなさんもぜひ現地を訪れて、仙台ゆかりの文学者の青春に思いをはせてみてはいかがでしょうか。」 |
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